自由が丘 清澤眼科について

[No.1326] 自由ヶ丘 清澤眼科 2023年1月7日(土曜日) 今朝の話題は?

あけましておめでとうございます。5日から今年の診療を再開いたしました。寝正月でゆっくりさせていただきました。このポスターは自由が丘駅前に張り出された一誠堂の移転案内です。私の医院が2階に見えています。看板は昨日作り替えられました。一誠堂部分が黒で看板の隅が角になりました。外壁は白っぽく統一されました。一誠堂の移転再開は21日土曜日です。

注:ノートパソコン破損のため、次回診療所に出勤する火曜日までこのブログの更新は致しません。良いお休みをお過ごしください。

◎ 今日明日で、渋谷の山手線内回りのレールが付け替えられるそうで、白い隔壁の上からのぞくと7:40頃既に山手線ホームでは線路移動工事が行われていました。以前は、副都心線で自由が丘から新宿三丁目までゆき、そこから丸の内線で新宿駅、そこからさらに総武線で高円寺(または阿佐ヶ谷)と繋いでいました。最近は渋谷駅3番ホームで埼京線利用で新宿へ、そこから11番ホームの中央線快速という経路が良さそうかと思っています。一年たってもまだ通勤の経路が確定しません。

 

◎ 新年最初の日刊ゲンダイ記事です:本年は年賀状をご遠慮いたしました。年賀状をいただいた方々に、お返事いたしております。

正月休み明けの「疲れ目」解消法…目の周りの筋肉の凝りが原因:日刊ゲンダイ自著記事紹介

◎ 乳児虐待症候群の診断に網膜出血を基準とすることは妥当なのかという新しいオン分を読んでいます。昨年末に日本医事新報に意見記事を書いた話の続きです。

乳児虐待症候群の診断に網膜出血は的確なのか?:という論文紹介

◎ 新年になって少し珍しい疾患の患者さんが立て続けに来院されました。先ずヘルペスウイルス間質性角膜炎。ステロイドと抗ウイルス薬で治療されます

ヘルペス性角膜炎:単純ヘルペスウイルス (HSV) 間質性角膜炎および内皮炎とは

◎ 網膜片頭痛はミグレインの血管攣縮が大脳の血管ではなく、網膜の血管に起きたもの。イギリス政府の見解を紹介します。

網膜片頭痛 retinal migraineとは

◎ 眼球摘出後の片眼性の幻視をファントム・ビジョンと呼ぶそうです。シャルル・ボネ症候群に似ています。

眼球除去後の幻視: 有病率、特徴および関連する危険因子

◎ ベル麻痺:原因のない片側の顔面神経麻痺。露出性角膜炎の原因になります。時には回復時に、異常神経再生によって片側顔面けいれんのような症状を示すこともありますので注意しています。

ベル麻痺 顔面神経麻痺

◎ 国際的なモデルである冨永愛さんをゲストに迎えてのリハック。アジア人として、邪魔にされた場面を跳ね返す話に共感しました。

冨永愛の劣等感、アジア人の葛藤とは「モデルの戦い」:リハック

◎ ドルインデクスとは。新年になってドルが安い。国際経済市場では何かが大きく狂っているようです。

ドルインデックスとは

◎ ウクライナで殺されているロシア兵もかわいそうです。メルケル・ドイツ前首相に加えて、イギリスのジョンソン前首相までもが、前の停戦協定はウクライナとナトー側の時間稼ぎであったとインタビューに答えています。

ウクライナ情勢 その最新情報は?

◎ 百万石の留守居役第17巻 要訣(上田秀人 講談社文庫)を読み終わりました。最後の部分で、家康は自分を排除しかねない力をつけた自分の長子である元康を信長の所為にして除いたという説を唱えていました。調べてみるとwikipediaにも:娘と不仲であった信長が殺害を命じたという通説とは異なる、家康と信康の父子不仲説が示されています。近年では、家康が信長に要求されたためというより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになりました。

『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や『当代記』では、信長は「信康を殺せ」とは言わず、徳川家の内情を酌んで「家康の思い通りにせよ」と答えている。つまり家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということである。 また、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。また『家忠日記』によると、事件が起きる前年の天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている。さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことがうかがえる。 また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。

 

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