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[No.2765] 塞翁の盾(上下、今村翔吾 著)をこの一週間読んでいました

塞翁の盾(上下)をこの一週間、読んでいました。『塞翁の盾』は今村翔吾の2021年の直木賞受賞作品で、安土桃山時代を舞台にした歴史小説です。この作品は、安土時代の技術と戦術を描くことを通じて、当時の戦争や政治のリアリティを読者に伝えています。

主要なポイント

  1. 鉾(ほこ)と盾(たて)

   – 鉾:国友村製の鉄砲や大砲を指しています。国友村は当時の鉄砲製造の中心地であり、その技術は戦国時代の戦闘において非常に重要でした。鉄砲の登場により、戦術が大きく変わり、従来の武士の戦い方に革新をもたらしました。

   – 盾:城の石垣を象徴しています。石垣は城の防御の要であり、攻める側にとっては攻略が難しい防壁でした。特に伏見城と大津城は、石垣を多用した堅固な城であり、その設計と構造はこの時代の日本城郭建築において画期的なものでした。

  1. 塞翁(さいおう)

   – この言葉は、「要塞を築く王者」の意味として使われています。これは、強固な防御と攻撃のための軍備を整える築城の指導者を指します。具体的には、穴太衆最大の飛田屋の源斎とその志を継ぐ匡介を指しています。

  1. 歴史的背景

   – 安土桃山時代は、戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけての期間で、日本が統一に向けて動き出す時代でした。織田信長が安土城を築き、豊臣秀吉之大阪城、伏見城がそれを受け継ぎ、さらには徳川家康が江戸幕府を開くまでの激動の時代です。この時期の戦闘技術や城郭建築は、後の日本の歴史に大きな影響を与えました。

  1. 物語のテーマ

   – 『塞翁の盾』は、戦国時代の技術革新と戦術の進化を描くことで、当時の人々の生き様や戦略、そして戦争のリアリティを読者に伝えています。国友村の鉄砲や伏見城、大津城城の石垣は、その象徴的な要素であり、戦国時代の軍事技術の進歩を象徴しています。

このように、『塞翁の盾』は、安土時代の戦術と技術を詳細に描きつつ、その背後にある人間ドラマや歴史の動きを浮き彫りにしています。大津城の琵琶湖の水の水を内陸側の外堀に引き込むという暗渠のからくりを私は今一つ理解できませんでした。

注:穴太衆(あのうしゅう):

安土桃山時代(1568年〜1600年)は、日本の戦国時代から江戸時代への移行期で、多くの城が築かれた時期です。この時期に城の石垣を築く技術に長けた職業集団として有名なのが、穴太衆(あのうしゅう)です。

 穴太衆の起源と歴史
穴太衆は、滋賀県大津市の穴太(あのう)地区を拠点とした職業集団です。彼らの技術は代々受け継がれ、穴太積みと呼ばれる独特の石積み技法を発展させました。この技法は、戦国時代から安土桃山時代にかけて多くの城で採用されました。

穴太積みの特徴
穴太積みの特徴は、自然石をそのまま積み上げる技法にあります。これは以下の点で特筆されます。

1. 自然石の利用:加工せずに自然の形を活かした石を使うため、石と石の間に隙間が少なくなり、強度が高まります。
2. 安定性:石の形を見極めて巧みに組み合わせることで、地震や戦闘による衝撃にも耐えられる強固な石垣を築くことができます。
3. 美観:無骨ながらも自然の形を活かした美しい外観が特徴です。

穴太衆の活動
穴太衆は、主に以下のような城の石垣築造に携わりました。

– 安土城(あづちじょう):織田信長が築いた城で、穴太衆の技術が遺憾なく発揮されました。
– 大阪城(おおさかじょう):豊臣秀吉が築いた城でも、穴太衆の技術が用いられました。
– 江戸城(えどじょう):徳川家康が築いた城でも、穴太衆の技術が重要な役割を果たしました。

穴太衆の技術の伝承
穴太衆の技術は、江戸時代以降も日本各地の城や寺社の石垣築造に活用されました。彼らの技術は「穴太流」として知られ、現代に至るまで受け継がれています。現代でも穴太積みの技術は評価され、文化財の修復や保存において重要な役割を果たしています。

穴太衆の社会的地位
穴太衆は、単なる石工集団ではなく、高度な専門技術を持った職業集団として尊敬されていました。彼らの技術は当時の大名や将軍たちからも高く評価され、多くの城主が穴太衆の技術を求めました。

 まとめ
安土桃山時代における穴太衆は、城の石垣築造において欠かせない存在でした。彼らの技術は、自然石を巧みに利用し、強固で美しい石垣を築くことにありました。この技術は後世にも受け継がれ、日本の歴史的建造物の一部としてその価値が認識されています。穴太衆の存在は、日本の城郭建築の一つの象徴とも言えるでしょう。

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