長野県における白ブドウ小史と我が家の千曲デラウエア
昭和の庭先にあった白ブドウ
私の育った昭和30〜40年代の長野の農家や庭先には、必ずといってよいほどブドウ棚がありました。私の父も30歳台後半から40歳頃にかけて、毎朝欠かさず葉の先端が枯れた枝を探し、そこに潜む白い髄虫(ズイムシ)を取り除いていました。その根気が実りとなり、夏から秋にかけて立派なブドウが房を垂らしました。当時は赤みの薄い「千曲デラウエア」と、種のある白ブドウが並んで生育していた記憶があります。
デラウエアと千曲デラウエア
全国的に知られるデラウエアは米国由来の赤系小粒ブドウですが、長野では気候や土壌に適応する中で、やや粒が大きく、赤みが淡くなる「千曲デラウエア」が地域固有の名を得て広まりました。これらは生食用として食卓を彩り、子どもにとっては夏休みの楽しみでもありました。ナイアガラなどの香り高い白ブドウも栽培されていましたが、病害虫や手間の多さから次第に姿を消していきました。
善光寺ブドウ(竜眼)と古来の白ブドウ
さらに歴史を遡れば、江戸期から明治にかけては「竜眼(善光寺ブドウ)」が長野独自の白ブドウとして知られていました。小粒で酸味があり、現在では一部がワイン醸造用として復活していますが、かつては露地栽培の代表格でした。
平成から令和への変化
平成以降、果樹産業の担い手が減り、露地栽培のブドウ棚は姿を消しつつあります。加えて、消費者の嗜好は種なしで甘い「シャインマスカット」へと大きく傾きました。かつて父が大切に守っていたナイアガラも、ここ10年ほどで手入れの担い手を失い、我が家では全滅してしまいました。
今を生きる千曲デラウエア
残ったのは千曲デラウエアのみ。先月私が帰省したときにはまだ青かった実が、先週、家内と娘の訪問ではちょうど盛りを迎え、立派な房となっていました。かつて父の手が守っていた伝統は、形を変えながらもまだ息づいているのだと感じます。
まとめ
長野県の白ブドウの歩みを振り返ると、江戸期の竜眼、戦後の庭先のナイアガラや千曲デラウエア、そして現代のシャインマスカットへと移り変わってきました。ブドウは単なる果物ではなく、時代ごとの生活と密接に結びついた風景の一部でした。今わが家の棚で実る千曲デラウエアの房も、その長い歴史の一端を静かに物語っているのかもしれません。
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