白内障

[No.3957] 細胞の論理 ― ルーシー・シャピロ博士の歩みと現代への警鐘:記事紹介

細胞の論理 ― ルーシー・シャピロ博士の歩みと現代への警鐘

2025年、アメリカの医学界で最も権威ある賞の一つ「ラスカー〜コシュランド特別功績賞」が、スタンフォード大学のルーシー・シャピロ博士に授与されました。博士は55年にわたる研究生活を通じて、細菌という小さな存在の中に「生命の設計図がどのように時間と空間で動き、異なる細胞を生み出すのか」という根本的な問いに挑み続けてきました。その成果は、現代医学と生命科学の基盤を築くとともに、感染症や薬剤耐性といった私たちの生活に直結する問題にも大きな示唆を与えています。


生命の設計図を解き明かす道のり

博士が科学者として歩み始めたのは1960年代。DNAが遺伝情報の本体だと分かり、分子生物学が急速に発展していた時代でした。博士は当初、ウイルスのRNAを複製する酵素を研究しました。この研究は半世紀後、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の複製機構解明にも直結することになります。

やがて博士は「試験管内の実験」から「生きた細胞の中で何が起きているか」へと関心を移し、極めてシンプルでありながら左右非対称に分裂する細菌 Caulobacter crescentus(カウロバクター) を研究対象に選びました。この細菌を通じて、遺伝子の情報がどのように立体的な細胞構造や働きへと翻訳されるかを追究したのです。


細胞は「袋の中の酵素」ではない

1990年代初頭まで、細菌は「ただの袋に酵素が詰まったもの」と考えられていました。しかし博士の研究室は、細菌の内部にも秩序ある配置があり、特定のタンパク質が細胞の極に集まり、時間の経過とともに場所を変えることを明らかにしました。これによって、同じ遺伝情報から異なる運命をもった娘細胞が生まれる仕組み、すなわち「細胞分裂の非対称性」の理解が進みました。

この発見は「発生生物学」の根幹にもつながります。なぜなら、私たち人間を含む多細胞生物も「どの細胞がどんな役割を担うか」を決めるのは、まさにこのような空間的・時間的な分子の配置だからです。


システム生物学への先駆け

また博士は、夫で物理学者のハーレー・マクアダムス氏と協力し、遺伝子ネットワークを「電気回路」として捉える新しい視点を切り拓きました。これが現在広く使われる システム生物学 の出発点の一つです。分子生物学、物理学、工学の研究者が同じ研究室で言葉を交わしながら研究を進めるスタイルは、その後の生命科学のあり方を大きく変えました。


科学から社会へ ― 感染症と抗菌薬耐性

博士は研究室の中だけにとどまらず、社会問題にも積極的に関わってきました。抗菌薬耐性の拡大や新興感染症の出現に危機感を持ち、大統領や議会に直接訴えたほか、新しい抗真菌薬を開発する企業を立ち上げ、実際にFDA承認薬を世に送り出しました。科学を社会に役立てる責任を果たそうとする姿勢は、研究者のあるべき姿を体現しています。


現代への警鐘

博士は現在、「アメリカにおける科学への信頼が揺らいでいる」と強い懸念を示しています。政治的な攻撃や科学軽視の風潮は、将来世代の健康や国の安全を脅かすものだというのです。さらに、ウイルスや細菌は国境を知らない存在であり、「私たちは地球という一つの村に生きている」という認識を持つことの重要性を強調しています。


まとめ ― 科学の力を次世代へ

ルーシー・シャピロ博士の人生は、「小さな細胞の論理」を解き明かしながら、「大きな社会の健康」を守ろうとした軌跡でした。科学の進歩は、自由な探究心と社会への責任の両輪によって進むものです。私たち医療者もまた、患者さん一人ひとりの健康を守りながら、科学を信じ、次世代につないでいく役割を担っているのだと改めて感じます。


📖 出典

Lucy Shapiro, PhD. The Logic of Cellular Life: The 2025 Lasker~Koshland Special Achievement Award in Medical Science. JAMA. Published online September 11, 2025. doi:10.1001/jama.2025.14910


👨‍⚕️ 院長清澤のコメント

シャピロ博士の半世紀にわたる歩みは、科学が人類の健康を守るためにいかに重要かを改めて示しています。細菌の研究という基礎科学から、抗菌薬耐性や感染症といった現実の課題に取り組み、さらに政策提言まで行った姿勢は、私たち臨床医にとっても大きな刺激になります。基礎研究と臨床現場は一見遠く感じられますが、どちらも「人の命を守る」という一点でつながっています。科学的真実を大切にし、それを社会に伝える努力を惜しまないことが、これからの医療者に求められる姿勢だと強く感じました。

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