脳の予測と妄想 ― 最新精神医学研究から見えてきたこと
はじめに
自由が丘清澤眼科では日々「目の見え方」と「脳の働き」の関わりを患者さんにお伝えしています。視覚は脳の活動と密接につながっており、ものの見え方や感じ方は脳の情報処理に大きく依存します。今回は少し視点を広げ、精神医学領域の最新研究をご紹介します。それは「妄想」と呼ばれる症状が、脳が環境をどのように“予測”しているかと深く関係していることを示した報告です。
背景
妄想は統合失調症や妄想性障害にみられる代表的な症状で、特に「迫害妄想(誰かに危害を加えられると信じ込む状態)」は患者さんの70%以上に存在するとされます。薬物療法や心理療法は一定の効果があるものの、症状が長く続く人も多く、より的確な治療戦略が求められています。
ここで注目されているのが「変動性の事前確率(volatility prior)」という考え方です。これは「環境がどの程度頻繁に変化するか」という予測のこと。これを過大に見積もると「世界は常に不安定で、何かが起こるはずだ」と感じ、些細な出来事も迫害と結びつけやすくなります。今回の研究は、心理療法によってこの「変動性の事前予測」や脳の働きがどう変化するのかを調べたランダム化臨床試験(RCT)です。
目的
研究の狙いは、妄想の重症度が改善する際に、
① 信念の更新課題中に推定される「変動性の事前確率」がどう変わるか
② 脳の活動(尾状核や前頭前野を中心とする領域)がどう変わるか
を明らかにすることでした。
方法
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対象:統合失調症スペクトラムまたは妄想性障害を持ち、3か月以上持続する迫害妄想を有する18〜65歳の成人62人。
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介入:
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CBTp(認知行動療法 for psychosis):迫害妄想に焦点をあてた心理療法。
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ビフレンド療法:中立的な話題での会話や活動を行う対照的介入。
両者とも8週間にわたり対面で行い、標準治療(薬物・サポート)と併用。
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評価:
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「変動性の事前確率」:確率的反転学習課題から算出。
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妄想の重症度:PSYRATS妄想サブスケール(0〜16点)。
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脳活動:fMRIによる尾状核・前頭前野の信号変化。
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結果
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妄想の改善:両群とも妄想の重症度が有意に低下(効果量 Cohen d=1.50)。
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変動性の事前確率:治療後に有意に減少(Cohen d=0.52)。
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脳活動:尾状核と前頭前野の活動が低下。特に尾状核の変化は「変動性の事前確率」の低下と関連。
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症状との関連:予測の変化と症状改善の間には明確な統計的関連は確認されませんでしたが、脳活動との関係は有意でした。
結論
このRCTの結果、心理療法は患者さんの「世界は常に変化して危険だ」という過大な予測を和らげ、尾状核や前頭前野といった脳の活動も落ち着かせることがわかりました。妄想症状そのものの改善との直接のつながりは限定的でしたが、「変動性の事前予測」という仕組みが精神病治療の新しい標的になりうる可能性が示されました。
まとめ
この研究は、妄想を「脳の予測の歪み」として捉える新しい視点を提示しました。視覚の世界でも、脳は常に未来を予測しながら情報を処理しています。その予測が過剰になれば見え方が歪むのと同じように、精神の世界でも「予測の誤り」が妄想という形で現れるのです。
眼科診療に携わる立場から見ても、この「脳の予測モデル」の研究は非常に興味深く、脳と心の働きを理解する新しい窓口になると感じます。将来、より個別化された精神医療やリハビリテーションに応用されるかもしれません。
清澤のコメント
脳が未来をどう予測するか、その歪みが妄想に結びつくという考え方は、視覚の異常を説明する枠組みにも通じます。眼科と精神医学は遠いようで近い領域だと改めて感じます。まだ実効は感じておりませんが、当医院でも臨床心理士を月に一度診療に加えて、認知行動療法を神経眼科疾患の眼科診療に取り入れようとしています。
出典
Julia M. Sheffield, PhD; Ali F. Sloan, MD; Philip R. Corlett, PhD, et al.
Variability Prior Expectations After Psychotherapy for Delusions: A Randomized Clinical Trial.
JAMA Netw Open. 2025;8(6):e2517132.
doi:10.1001/jamanetworkopen.2025.17132
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