先日からの『北の御番所 反骨日録』を読み進めて早くも6巻「雷鳴」です。主人公の「やさぐれ」裄沢広二郎の性格も漸く理解が出来て来ました。彼が務めたとされる北町奉行所は現在の東京駅日本橋口付近に置かれていたようです。(私の医科歯科大学在勤中は付近の大手町駅で乗り換えていました。)同心たちの住居はそこからは東南の八丁堀にありました。江戸雑記録(江戸雑記録 (ashigaru.net))という文化・文政のころから安政ごろまでの江戸の役人について解説したページで状況を調べてみました。
下の左地図(上が北)で現在の東京駅と北町奉行所の位置関係が解ります。右の地図では、上が西になっていますが、町方の役宅が有った八丁掘と南北の江戸町奉行所の位置関係が解ります。江戸城は図ではこの上に当たります。下の写真は後で色を入れたものでしょうが、明治になって破却される前の呉服橋御門です。北町奉行所はこの呉服橋御門内とされます。今の東京駅東を南北に走る外堀通りが当時は堀になっていました。
◎組与力の花形部署である吟味方や年番方は下役同心にとっても働きがいのある場所だったようですが、組同心にとって最大の働き場は廻り方でした。もともと町廻りしかなかったところに、隠密廻りと臨時廻りが加わって、定(町)廻りとあわせた三廻りの体制が整ったのは寛政(1789~1800)ごろのことでした。
臨時廻りで数年経験を積み、廻り方に適性があると判断されたら、定廻りもしくは(定廻格)臨時廻りとして本格的なキャリアを積み重ね、隠密廻りに昇ったころには奉行所の顔ともいうべき存在になっていました。隠密廻りとはいっても、時代劇によくあるような潜入捜査官ではなく、町奉行に直属して幅広く情報収集を行い、奉行の耳目となるのが主要任務です。
組与力同心はもちろん、町奉行本人や、内与力と呼ばれた奉行の家来たちに関する噂や評判まで収集して報告したので、監察官的な役割も果たしており、組与力たちからも一目置かれていました。隠密廻りになる頃にはとっくに年寄同心になっているのが普通でした。
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幕初から続く町方与力同心は南組と中組に別れ、中町奉行の廃止とともに、南組と、新たに町方与力同心となった北組が町方として残ることになりました。このとき、各組には与力二十三騎、同心八十人が属していました。このうち、廃止となる中組の与力四騎と同心四十人は南北両組に転属となり、他の与力同心は先手組に割り当てられました。こうして、南北両組は与力二十五騎ずつ、同心百人ずつの陣容となりました。
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定中役の中役とは、組役(組屋敷、つまりは官舎で組内の事務を執る同心支配役や年寄同心、物書同心など)や、内役(日々役所に出勤する年番や吟味方、例繰方など)、外役(本所見廻や牢屋見廻、養生所見廻など)といった町方用語と並列の中役という用語から派生した役職名なのでしょうか。
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