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[No.3421] 『火天の城』 ― 織田信長、安土城と木曽の物語

 

『火天の城』を観て ― 織田信長、安土城と木曽の物語

先週、映画『火天の城(かてんのしろ)』を観ました。この作品は、織田信長の命を受け、安土城の築城に挑んだ熱田の宮大工・岡部又右衛門とその家族の物語です。戦国時代の無名の職人たちが、信長の壮大な夢の実現に向けて奮闘する姿が描かれており、大変感銘を受けました。

映画情報

  • タイトル:火天の城(2009年公開)

  • 原作:山本兼一『火天の城』

  • 主演:西田敏行(岡部又右衛門)、大竹しのぶ(妻・田鶴)、福田沙紀(娘・凛)、椎名桔平(織田信長)

あらすじ

天正4年(1576年)、織田信長は天下統一の象徴として、琵琶湖畔・安土に五重の壮麗な城を築くことを決意。総棟梁に指名されたのが、熱田の宮大工・岡部又右衛門です。彼は理想の木材を求めて敵地・木曽へ赴き、数々の困難を乗り越えながら築城を進めます。家族や仲間の支えを受けながら、信長の夢の実現に向けて奮闘する姿が描かれます。

完成した安土城は、信長横死の直後に放火され焼失し、以後「城」として用いられることはありませんでした。


木曽との縁と歴史

私の母の実家は、長野県木曽郡大桑村須原にあります。かつてこの地は、戦国大名・木曽氏の本拠地であったとも聞いています。

戦国史の流れの中で、木曽のヒノキと安土城築城との関わりを見ていきましょう。


■ 1575年:長篠の戦い

織田信長・徳川家康連合軍が、武田勝頼の騎馬軍団を破りました。織田家の鉄砲3弾打で有名ですが武田氏の衰退が決定的となった合戦です。

■ 1576年:安土城の築城開始

信長は、従来の軍事拠点としての城ではなく、政治・宗教・経済を集約した壮大な「安土城」の築城を開始しました。五層七階の天主を中心に、絢爛な障壁画や石垣など、革新的な構造が採用されました。

この築城に際し、建材として「木曽ヒノキが用いられた」という伝承が残っています。これは当時、木曽を支配していた木曽義昌の協力によるものと考えられています。

■ 1582年:武田家の滅亡と木曽義昌の転身

木曽義昌は元々、甲斐の武田家に属していましたが、信長の「甲州征伐」に先立って武田勝頼を裏切り、織田方に転じます。これにより信長は木曽谷を経由して武田領へ侵攻し、勝頼の自害によって武田家は滅亡しました。

■ 豊臣政権下での木曽氏の改易

信長の死後、木曽義昌の子・義利とその兄弟の間で家督争いが発生し、豊臣政権下で問題視されます。結果として木曽氏は**改易(取り潰し)**となり、大名としての家名は断絶しました。

なお、木曽氏が関宿藩主になったという説がありますが、実際には関宿には久世氏や牧野氏など、別家系が藩主として入っており、木曽氏ではありません。

■ 江戸時代の木曽:山村氏の支配

江戸時代、木曽谷(木曽十一宿)は尾張徳川家の直轄領となり、代官として山村氏が統治を行いました。初代・山村良勝を皮切りに世襲で木曽谷を支配。木材の管理、治安維持、年貢徴収などを行い、**「木曽代官」**として明治維新まで続きます。


まとめ:安土城と木曽のつながり

出来事
1575年 長篠の戦い(信長・家康連合軍が武田を破る)
1576年 安土城の築城開始(木曽材の伝承あり)
1582年 武田家滅亡、木曽義昌が信長に協力
1580年代末 木曽氏、内紛により豊臣政権により改易
江戸時代初期~幕末 木曽谷は尾張徳川家領、山村氏が木曽代官として支配

あとがき

信長の革新的な城づくりを支えたとされる「木曽ヒノキ」。その背景には、戦国大名の思惑や家の興亡、そして時代ごとの地方支配の変遷がありました。

「木材」と「政略」――この二つのキーワードが、戦国から江戸へと続く時代の流れを静かに物語っているように感じました。


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