北方謙三『水滸伝』に描かれる燕青──片目を失っても貫いた志
読書の愉しみの一つは、時に心に深く残る人物に出会うことです。
現在、私は北方謙三著『水滸伝』を読み進めていますが、その中に登場する燕青(えんせい)という人物には、特に心を打たれています。
燕青は原典『水滸伝』でも梁山泊の好漢のひとりとして知られますが、北方版ではより深みを与えられ、片目を失うという試練を背負った男として描かれます。この設定は、彼の精神的成長を鮮やかに浮かび上がらせ、物語の中で強い存在感を放っています。
燕青とはどのような人物か
燕青は「碧眼(へきがん)の燕青」とも呼ばれ、西方系の血を引くとされる碧い瞳を持つ青年です。
体術に優れ、知略にも富み、さらに歌や芸事にも通じるという多才さを持ちながら、もとは盧俊義(ろしゅんぎ)の家臣でした。
物語の初登場は第3巻『趙宋の夢』。
盧俊義の危機を救おうと梁山泊に加わった燕青は、戦闘だけでなく情報収集や潜入工作など、多岐にわたる役割を果たします。
単なる武人ではない、知と行動力を併せ持つ梁山泊の重要な一員として、彼は物語の中に静かな光を投げかけます。
片目を失う運命──第8巻『碧眼の星』
転機は第8巻『碧眼の星』で訪れます。
梁山泊と敵勢力との壮絶な戦いのさなか、燕青は矢を受け、片目を失明してしまうのです。
戦場での負傷は、肉体だけでなく、彼の心にも深い傷跡を残しました。
燕青は失った左目を隠すために、粗く削った木片に墨で瞳を描き、義眼として装着します。
しかし、彼は次第に思い至ります。
「これでは、何も見えぬ」
義眼は、外見を繕うための空虚な飾りにすぎない。
生き残った片方の眼でこそ、真実を見据えなければならない──。
この思いに至った燕青は、義眼を外し、手に取って見つめ、そして地面に落として踏み砕きます。
木片が粉々になるのを見届けたあと、静かにこう呟くのです。
「生きているこの眼で、見る。」
この場面は、燕青という人物の覚悟と再生を象徴する、極めて美しい一瞬です。
北方謙三の簡潔で余韻を残す文体が、燕青の内面を静かに、しかし力強く読者に伝えます。
虚飾を捨て、真実を見つめる
義眼を砕き捨てた燕青は、それまで以上に澄んだ眼差しで時代の終焉を見つめるようになります。
彼にとって片目を失うことは、不幸ではなく、
「虚飾を拒み、残された命で真実と向き合う」
ための、必然の試練だったのでしょう。
そしてその姿勢は、梁山泊という理想を追った者たちの精神を、最後まで体現するものとなりました。
物語終盤──孤独に生きる決意
梁山泊が崩壊し、仲間たちが散っていく中でも、燕青は生き続けます。
北方版『水滸伝』では、彼は生存者として描かれますが、単なる「生き延びた者」ではありません。
彼の胸には、梁山泊の精神、仲間たちとの誓い、そして時代への深い哀惜が、静かに燃え続けているのです。
最終巻に至るまで、燕青は目立った活躍は控えますが、彼の存在は物語の背後でひときわ強く響きます。
孤独と誇りを背負いながら、未来へ繋ぐ者──
それが北方謙三が描いた燕青の姿でした。
燕青の生存──原典との違い
ちなみに、原典『水滸伝』でも燕青は生き延びる設定です。
ただし、北方版ではその生存に、より深い「孤独」や「滅びた理想を抱き続ける者」というニュアンスが与えられています。
単なる幸運な生存ではなく、
「生きねばならないという重い使命」
として描かれている点が、北方版ならではの魅力だと感じます。
まとめ──燕青の姿に学ぶもの
北方謙三版『水滸伝』における燕青は、
単なる「片目を失った武人」ではありません。
義眼を捨て、虚飾を拒み、孤独と共に歩みながら、それでも希望を見つめる者。
彼の姿は、読む者に静かに、しかし確かに語りかけてきます。
どれほど傷つき、どれほど孤独であろうとも、
「生きているこの眼で見る」──。
そんな燕青の覚悟に、私は深い感銘を覚えました。
時代の荒波に飲み込まれようとも、なお真実を見失わずに生きる。
それは私たち現代に生きる者にとっても、心に刻むべき姿勢ではないでしょうか。
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