ご近所の話題

[No.3617] 叔母の訃報に「神去なあなあ夜話」を思い出しました

山の記憶と「神去なあなあ日常」――自然の中で見つめ直す「見る」ということ

先日、母の妹である叔母が永眠しました。しばらく会う機会はなかったのですが、小学生の頃、母に連れられて谷あいのその家を訪ねたことがあります。

その家の前には、山から流れ出る澄んだ流れがあり、小魚――たぶんウグイだったと思います――が泳いでいました。叔母の家では、自転車のスポークを研ぎゴムを懸けた手作りのモリで魚を突き、フライにしてもらって食べるという、今にして思えばとても貴重な経験もしました。

自然の中で何かを「見る」という行為は、都市の生活で私たちが普段行う「見る」こととは、少し異なる体験です。風に揺れる木々の葉、川面にきらめく光、小さな魚の動き――目に映るすべてが、五感と結びついて、より深い記憶として残っているように思います。

叔父は、蚕の一生を撮影して写真集にまとめたり、かつて山から木材を谷に落とすために使われた木道(きみち)を再現して、その作業の様子を写真に記録するなど、多才な人でした。その営みは「記録する目」でもあり、自然や暮らしを見つめるまなざしを教えてくれたように感じています。

従兄は私と同年ですが、現在も代々受け継いできた山林の管理をし、自分でブルドーザを使って林道を開き、伐採・製材・出荷までを一貫して行っています。効率や時間に追われる都市生活とは異なり、自然に目を合わせながら暮らす生き方なのでしょう。

この話を思い出して、ふと読み返したのが、三浦しをんさんの小説『神去なあなあ日常』と『神去なあなあ夜話』でした。10年近く前に読んだにもかかわらず、叔母の訃報を聞いて私の記憶に鮮明によみがえり取り出してみました。

都会の高校を卒業した半ば引きこもりの主人公・「勇気」が、知らぬ間に就職させられた先は、電波も届かない深い山村。山仕事に慣れない日々の中で、最初は何度も逃げ出そうとするものの、やがて雄大な自然の中にある美しさに心を奪われ、地域の人々との交流や失恋も含めた生活の中で成長していきます。

目の前の自然を見て、心が動き、社会とつながる。これは「視覚」が単なる情報取得だけでなく、感情や記憶、ひいては生き方にまで深く関わっていることを教えてくれます。

日々、都市の診療室で眼を診ていると、私たちが「何をどう見るか」――そしてそれを通じて「どう生きるか」が、いかに大切かを思い出させられることがあります。

ときには自然の中で目を休め、視界いっぱいに広がる緑や流れる水の音に身を委ねてみるのも、心と目の健康にとって意味のある時間かもしれません。

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