上手に死ぬということ〜医師が見た「幸福な最期」のかたち〜
眼科という専門の中で日々診療を続ける私たちは、患者さんの人生の終末期に向き合う機会は乏しく、むしろご家族からその死の報告を聞くことがあります。とりわけ高齢の患者さんや全身疾患を抱える方と接する中で、「最期はどのように迎えるのがよいのか?」という問いは、静かに、しかし確実に浮かび上がってきます。よく語られるの「カリフォルニアから来た娘」(末尾に追記あり)という言葉でしょう。
外科医・在宅医療医であり作家でもある久坂部羊(くさかべ・よう)氏が、著書『死が怖い人へ』(SBクリエイティブ)で提起している「上手に死ぬ」という考え方には、多くの示唆があります。
幸福な死とは、納得と満足の先にある
久坂部氏は「幸福な死」とは、痛みや苦しみが少なく、思い残すことなく満ち足りた気持ちで迎える死だといいます。それは「納得のある死」とも言い換えられ、自分の人生に対して「これでよかった」と感じられるかどうかが重要だというのです。
死を目前にして必要以上に医療に頼ると、その「満足感」から遠ざかってしまうと同氏は述べています。延命治療の名の下に、本人の尊厳が損なわれたり、苦しみが増すケースも少なくありません。
医療の限界と「下手な死」
久坂部氏が強調するのは、最期の医療の多くが「家族のためのパフォーマンス」になってしまっているという現実です。針、管、人工呼吸器などの医療行為は、実際には寿命を延ばすというより、「死にゆく過程を苦しくしてしまう」ことがあるのです。
「下手な死」とは、まさにこうした無意味な医療の果てにある、本人の尊厳を損なう死であると定義されています。逆に「上手な死」とは、自然なプロセスに身を任せ、必要以上の医療に頼らない穏やかな死です。
自宅で死ぬという選択
久坂部氏の祖父母と両親は、全員が自宅で亡くなったといいます。それは医師として、死に際の医療の限界を知っていたからこその選択でした。
在宅で死を迎えることは、決して難しいことではありません。酸素投与や点滴が不要であることも多く、必要なのは「寄り添い」と「覚悟」です。痛み止めが必要な場合は在宅医が対応でき、死亡診断も問題なく行われます。
むしろ、死を目前にした時にあわてて救急車を呼んだり入院させたりすることが、死の自然な流れを乱してしまうことがあるのです。
「あの世」の存在を信じるということ
記事の後半では「あの世」の存在を信じる人と信じない人の死の迎え方についても触れられていました。信じることによって死への恐怖を和らげられるのなら、それは“心の薬”としての意味を持ちます。
一方で、死んだら終わりだと割り切っている人のほうが、むしろ淡々と最期を受け入れているようにも見えるというのも、著者の視点です。
医師として伝えるべきこと
「死に臨んでは、医療は無力である」という事実を、医師の私たちが伝えられるかどうか。それは簡単ではありません。時に、冷たく非情に聞こえてしまうかもしれません。しかし、医療に頼り過ぎることのリスクを伝えるのも、医師の重要な役割のひとつだと私は思います。
自宅で、家族の中で、静かに、納得して、満ち足りた気持ちで最期を迎えること――それが「上手な死」であり、実は特別なことではなく、誰にでもできることであるという著者の言葉には、深い共感を覚えます。
追記:「カリフォルニアから来た娘(the daughter from California)」とは、死期が近づいた高齢者のもとに、普段は疎遠だった遠方の子ども(とくに娘)が突然現れ、医療方針やケアのあり方に口を出して現場を混乱させる状況を指す医学界の隠語です。1991年、エリザベス・キューブラー=ロスの弟子であるアーサー・カプランがNew England Journal of Medicineに寄稿した文章の中で紹介され、有名になりました。患者本人の意向よりも自己の罪悪感や後悔に基づく行動が問題視されます。
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