清澤のコメント:先日読み始めたところで早々と紹介したマタギ(日本の伝統狩人探訪記)の中に次の記載がありました。秋田県阿仁地方の古老たちは現在もなお「山達根本之巻」と称する巻物を大事に秘蔵している。これは彼らが代々伝えてきたもので、山に入るときは必ず持参した。、、秘伝書の類はわが国ではかなり多いという。万事は盤次とも盤司とも、万二また万治とも変わる。
山形県山形市山寺の立石寺の記録によれば一人の人物だが、そこから移り住んだという宮城県仙台市出生、大梅寺の記録だと、盤次と盤三郎という兄弟の狩人という事になっている。、、一致しているところは万事万三郎がマタギの始祖であったという点だ。
北秋田郡十二所町にある老犬神社の由緒によると、万三郎は藤原鎌足の曽孫魚名を遠祖とし、その子孫にあたる下野の押領使藤原英聡(俵藤太)の後裔という。万事万三郎は山寺に住んでいたが、その地が朝廷から慈覚大師に下賜されて、狩猟を禁じられたので、万三郎は山寺を退いて、狩猟適地を探すことになる。(この記録の残された1129年前の話)
そして、仙台市名取川流域に至る。山の名に今も盤次は残る。仙台藩では、万二が奥州二口に、万三郎は茂庭の綱木山にいたという。
清和天皇の御代に、下野日光山の麓に万事万三郎という狩人が済んでいた。そのころ日航権現と上野国赤城明神とは仲が悪くたびたび合戦をしたが、赤城明神は丈余の大ムカデに変身して襲ってくるので日光権現はいつも負けていた、そこで権現は白い鹿に姿を変えて、万三郎に助けを求めた。合戦の時に万三郎はムカデの両眼を射たので日光権現は「これより日本国中の山々岳々の鳥獣を狩って差し支えなし」と許可した。
万三郎の伝説的足跡は最後に秋田に入っている。立石寺の古記によると「羽後の荒瀬に行った」とだけある。万三郎の足跡は阿仁に入って消えている。阿仁のマタギたちが、自分らこそ万事万三郎の直系だと自負するのは、この辺に起因しているようだ。:と戸川幸夫は「マタギ」の中に書いて居る。
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山寺と磐司岩のある二口渓谷は極近く、仙台からですと長町から七ヶ宿ダムに向かって西に入り、更に西に向かえばたどり着きます。県境を越えれば山寺。また茂庭は仙台城(青葉山)の西つながりで、太白山が仙台からは見えます。仙山線の最寄り駅は愛子です。いずれも私が学生時代から住んだ仙台の懐かしい地名です。
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