双葉文庫の井原忠政の三河雑兵心得シリーズも早くも12巻。2023年9月16日に第1刷が発行されている。この作品は足軽から始まって、畑佐氏足軽、足軽小頭、と出世してゆき、上田合戦では心でこのシリーズが終了かと思わせたが、夫どっこい生きていたという展開を経て今回の小田原仁義へと至る。全国総無事令を出して、明智光秀を討伐したのち、豊臣秀吉は私戦を禁じた。そこで勃発したのが真田家と北条家の間の上州の領地の帰属問題であった。徳川家康は信濃の真田家にも関東の北条家にも2枚舌で名胡桃上の帰属をあいまいにしており、真田家が実質的に支配していた。徳川から上州の真田家領土を北条に譲らせるという約束をもらっている心算の北条家はこの名胡桃城を攻め取ってしまうのである。「豊臣には北条を攻める余裕はない」という嘘の情報を盛んに流して、北条家を欺き、20万人の兵員を動員して歴史ある小田原城を大群で攻め滅ぼしてしまうのである。その前の信濃の騒乱を天正壬午の乱と呼ぶそうであるが、このあたりの地方史は大変面白い。尤も、信州松本城はいったん木曽氏の支配に入り、その後の武田家崩壊で上杉の支配領域となる。その後一旦は石川和正の石川家の支配となって江戸時代を迎えている。しかしこの石川家は金座支配の後藤家の没落に連座して都立節の憂き目を見ている。これは後日談。
小田原始末で、秀吉は実に意地の悪い仕置きをしている。小田原城落城の時、主人公の植田茂兵衛は山中城と韮山城を攻めるのに参加し氏規の開城を説得した。小田原落城の後、北条家は改易とされる。北条家当主氏直は徳川家康の娘婿であるとして罪一等を減じられたが、事実上の当主であった氏政と八王子城主の氏輝兄弟は切腹とされた。その介錯を命じられたのが氏政、氏輝兄弟の弟であり、茂兵衛が苦労して韮山城を開場させた北条氏規であった。そののち当主の北条氏直と叔父の氏規がどのような運命をたどったかが気にかかった。
◎その答:
北条氏の滅亡後、秀吉の旗本に
天正14年3月に家康は北条氏直との同盟中でありながら羽柴秀吉の配下に入ったことの説明のために伊豆国三枚橋城(静岡県沼津市)で北条氏政に面会し、るる説明に努めた。その時には家康は莫大な贈答品を北条氏に贈っているが、氏規には三枚橋城に備蓄していた兵糧米を一万俵も贈呈し、取次役の朝比奈泰勝には千俵を贈呈している。それほどに秀吉に従属したことを後めたく思っていたのである。氏規への過分な米贈呈も心からの詫であったと思われる。
羽柴秀吉は北条氏直に家康を介して大坂城に来て臣下の礼をつくせと要求し、まずは北条氏政の兄弟衆の一人を交渉相手として寄こせといってきた。そこで天正16年6月に氏規が家康の推挙で上洛し秀吉に面会し、事なきをえた。しかし北条氏政が秀吉政権への参入に抵抗を示し、翌年には猪俣邦憲が上野国名胡桃城を攻略すると、激怒した秀吉は北条氏に宣戦布告して天正十八年四月の小田原合戦となった。皮肉なことに家康が羽柴軍の先鋒隊となって攻め来った。氏規は韮山城に籠城して6月まで防戦に努めたが降伏。北条氏は7月に降伏して滅亡、氏規は命を赦免されて高野山に追放された。その後、氏直が天正19年に死去すると氏規の息子氏盛が氏直の遺領を継ぎ、氏規は二千石を拝領して秀吉の旗本となった。文禄3年(1594)に七千石を加増され、大坂城下の久宝寺町に屋敷を与えられた。氏規は慶長5年(1600)2月8日に死去し、氏盛が跡を継いだ。その頃には天下は家康の時代に入っており、氏盛は一万一千石を拝領して徳川氏の外様大名となり、子孫は幕末に至った。
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