田園調布駅近くの古墳探訪
田園調布駅近くには、多摩川台公園内に2つの大きな古墳があります。今日はそこを訪ねてみました。その特徴を以下にまとめました。
亀甲山古墳と宝萊山古墳:古墳は3世紀末から7世紀松の450年の間に作られました
- 亀甲山古墳: 前方後円墳で、全長約110メートルの大規模な古墳で、4世紀後半の築造です。多摩川台公園内に位置し、古墳の麓からは多摩川の美しい景色を楽しむことができます。多摩川の広い河川敷の向こうには武蔵小杉の高層ビル街が見えます。
- 蓬莱山古墳:墳丘長97.5メートル。4世紀前半。亀甲山古墳に並ぶ大きな古墳が蓬莱山古墳ですが、ここには柵も無く立ち入ることもできます。しかし、古墳と言われなければ河岸段丘上の小さな丘としか見えません。
- 多摩川台古墳群: 多摩川台公園内には、亀甲山古墳を含む10基の古墳が点在しています。一号墳は6世紀後半、2号墳6世紀前半。3,4,5,6,7号墳は6世紀末から7世紀前半の築造です。直刀、鉄鏃等の武器、耳飾り、菅玉等の装身具、馬具の轡、須恵器や土師器の器が出土していて、展示されていました。胎土分析で、埴輪は埼玉県、須恵器は大阪府での生産が推定されている。
- 公園内には古墳展示室もあり、古墳時代の歴史や文化について学ぶことができます。多摩川台公園は、古墳だけでなく、四季折々の花々や多摩川の眺望も楽しめる場所です。どちらの古墳も歴史的な価値が高く、散策にぴったりで多くの人々が集まっていました。
武蔵国造の乱
- 概要: 武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)は、古墳時代後期の安閑天皇元年(534年?、6世紀)に起きたとされる戦いです。17世紀頃までの武蔵国に関しては「无射志(むざし)」と表記されていた記録も見つかっていますが、武蔵国造の笠原氏の内紛とされています。2、
- またこの欄は単に地方勢力間の抗争ではなく、磐井の乱(いわいのらん)がこの時期に近く、527年(継体天皇21年)です。朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井が襲い負けました。(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)。このころには大和朝廷の中央集権が進んだ時期であったらしいです。
- 南北武蔵の抗争: これを南北武蔵の抗争とする説があり、それを取るならば、今回の多摩川台古墳群の主たちは後の武蔵国造の乱で没落したことが疑われます。(日本書紀に記載が有るそうです。)
- 使主と小杵の拠点: 使主(おみ、おぬし)の拠点は北武蔵(埼玉古墳群)、小杵(おぎ)の拠点は南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)であったとする説があります。この乱後に小杵の領域から橘花(現在の神奈川県川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉付近)・多氷(東京都あきる野市)・倉樔(神奈川県横浜市南東部)の屯倉(穀物倉庫)が近畿の大和朝廷に譲渡されたとされています。大和朝廷が筑紫を含む全国で中央集権化を進めていった歴史の一部として、この間の事情を読むこともできるようです。
コメント