木村拓哉さん主演の『Believe―君にかける橋―』をNetflixでまとめて見た。橋梁事故の責任を一身に背負わされた設計者・狩山陸が、余命を告げられた妻のもとへ「真実を携えて」戻ろうとする物語。序盤から企業不祥事の臭いが濃く、組織は体面を守るために誰かを“物語の都合のいい犯人”に仕立て上げる。医療の世界でもヒヤリとする構図だ。現場の判断、上意下達、記録の解釈、そして「誰が責任を負うのか」。他人事ではない。
狩山が脱獄に踏み切る場面は手に汗を握る。無謀とも見える行為の背後にあるのは、病床の妻の時間が確実に減っていくという現実だ。医者として日々、時間が人を追い詰める瞬間を見ている。治療の選択を急がねばならないことがあるように、彼も「今、動かねば間に合わない」と悟ったのだろう。逃げるのではなく、向き合うための逃亡。ここがこのドラマの肝だと感じた。
中盤以降、同僚や警察との駆け引きが重なり、証拠の断片が少しずつ集まる。真相に近づくほど、組織的な隠蔽の層が厚くなるのも現実味がある。設計変更、資材の質、発注と下請けの関係、書類の一文の重さ――橋は人と人、部門と部門、責任と責務を結ぶ“構造物”なのだと改めて思う。眼科の診療でも、検査値の一つ、所見の一行、同意書の一文が患者さんの将来を左右する。構造が健全でなければ、どこかで必ず歪みが出る。
狩山と妻の関係は、見ていて胸に迫る。彼が欲しているのは「無罪放免」そのものより、真実を明るみに出し、妻にまっすぐ顔を向けられる自分に戻ることだ。医療に置き換えれば、治る・治らないという二択だけではなく、どう生きるか、どう向き合うかという“意味”の回復に近い。彼の選択は、倫理の難問に対する一つの解だと感じた。
この作品には、往年の『逃亡者(リチャード・キンブル)』の影が差す。無実を証明するために追われる男。追う側にも理があり、追われる側にも理がある。違いは、狩山の物語が「社会の構造の歪み」と「時間の残酷さ」をより濃く帯びていることだ。キンブルが法と証拠の世界で戦ったのに対し、狩山はそこに企業倫理と組織防衛、そして家族の最期という切迫が重なる。だから一歩一歩が重い。
ドラマを見終えて、診療室に戻る自分の姿勢を少し正した。記録を丁寧に残すこと、患者さんやご家族へ言葉を尽くすこと、組織の名より事実を優先すること。橋を渡るのは登場人物だけではない。私たちもまた、日々の判断という橋を渡っている。『Believe』は、信じる対象を“誰か”から“事実”へ、“体面”から“誠実”へと架け替える物語だった。医療にも通底するこの問いを、しばらく忘れないでいたい。
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