座敷に掲げられた「高潔雲入情」――高みにあって情を失わぬ心
座敷の鴨井の上に72年以上掲げられていた横長の座敷額。その堂々たる筆致に改めて目を止めました。そしてその意味を改めてチャッピーに聞いてみました。書かれている文字は、「高潔雲入情」。右から左に読みます。
読み方
こうけつ くも じょうに いる
漢文訓読風には
「高潔、雲情に入る」
とも読めます。
意味
四字熟語として固定した成句ではなく、漢詩的な格調をもつ言葉です。
- 高潔:人格が高く、私心がなく清らかであること
- 雲:高みに漂う存在、俗世を超えた象徴
- 入情:人の情(こころ)に入り込む、心に響く
全体としては、
「高潔なる精神は雲のような高みにありながら、人の情に深く入り込む」
あるいは
「理想は高くあれ。しかし情を失ってはならない」
という人格観を示す言葉と解釈できます。単に清廉で冷たい人物像ではなく、高みにあってなお温かいという理想像です。
作者・中村不折とは
この書の作者は、近代日本を代表する書家であり洋画家でもあった**中村不折(なかむら ふせつ、1866–1943)**です。
東京・下谷に生まれ、若い頃は洋画家として出発しました。渡仏し、パリで本格的に西洋美術を学び、帰国後は夏目漱石ら文人とも交流しています。しかし後年、彼の関心は中国古代の碑文研究へと傾きます。
不折は漢代や六朝時代の金石文を徹底的に蒐集・研究し、古典の精神を現代日本に甦らせました。その成果は現在、東京台東区の書道博物館に収蔵されています。この博物館は不折自身が設立したもので、日本書道史研究の重要拠点となっています。
彼の書風は、
- 骨太で力強い線
- 墨量豊かで重厚
- 古拙でありながら気品を失わない
という特徴を持ちます。本作の「雲」の字にも、漢碑を思わせる厚みと重量感が感じられます。
書と視覚
書は線の芸術です。
線の太細、かすれ、墨の濃淡、余白の呼吸――それらはすべて視覚の精妙な働きによって味わわれます。
眼科医として日々診療に携わる中で、私はしばしば「見える」ということの意味を考えます。視力表の数字の向こうには、その人が見る風景や芸術体験がある。書の美しさを味わえることも、健やかな視機能の賜物です。
医療と「高潔雲入情」
高潔――理想を高く掲げること。
雲――俗世の利害から一歩離れる視点。
入情――しかし、患者さんの心に届く温かさ。
技術だけが先行しても、情がなければ医療は成立しません。逆に、情だけで理想がなければ、正確な判断はできません。この額は、その両立を静かに説いているように感じます。
終わりに
座敷に掲げられた一枚の書が、これほど多くを語るとは思いませんでした。
「高潔雲入情」
それは単なる装飾ではなく、昔の人の生き方への提言です。
理想は高く、しかし心は人に向けて開いておく。
診察室に戻って、改めてこの言葉を思い出しましょう。高みにある志を忘れず、同時に患者さん一人ひとりの情に寄り添おうと思うことは無性に格好良く感じられました。



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