米国小児科学会による虐待性頭部外傷(AHT)テクニカルレポートを批判的に検討する
本稿は、2025年に発表された英文論文
A critical review of the American Academy of Pediatrics technical report on abusive head trauma
の内容をもとに、眼科院長ブログの読者を想定して、背景から結論までを平易な日本語でまとめたものです。
乳児に重篤な頭部外傷が生じる原因の一つとして、身体的虐待が存在し得ること自体は、医学的にも否定されていません。しかし近年、より大きな議論となっているのは、「医学的所見だけから、個々の症例を虐待性頭部外傷(Abusive Head Trauma:AHT)と、どこまで信頼性高く診断できるのか」という点です。この診断をめぐっては、科学的根拠の弱さや方法論上の問題が、長年にわたり指摘され続けてきました。診断の誤りは、虐待を見逃す危険性がある一方で、無実の家族が引き裂かれ、介護者が刑事責任を問われるといった、取り返しのつかない結果を招く可能性もあります。
2025年、米国小児科学会(American Academy of Pediatrics:AAP)は、AHT診断に関する指針としてテクニカルレポート(以下、AAP TR)を公表しました。本論文の著者らは、このAAP TRで引用されている主要な研究を精査し、それらの研究がどのような基準や方法で「AHT症例」を定義・分類しているのか、また、その方法論が科学的に妥当といえるのかを、批判的に検討することを目的としています。
方法として、著者らはAAP TRに引用された一次研究の中から、AHTに特異的とされる所見を検討した研究や、診断精度を評価した研究を抽出しました。そして、それぞれの研究において、AHT症例がどのような根拠で分類されているかを詳細に分析しました。症例分類の根拠は、多職種チームの判断、医療記録、事前に定められた診断基準、介護者の自白、裁判所の判断、目撃証言などに整理されました。さらに、診断研究で問題となりやすい循環論法や「取り込みバイアス」が、適切に回避されているかどうかについても検討されています。
その結果、AAP TRが根拠としている研究の多くでは、AHT症例の分類が、客観的かつ独立した証拠に基づいているとは言い難く、専門家の判断や既存の前提に強く依存していることが明らかになりました。具体的には、71%の研究が多職種チームの判断を用いて症例を分類しており、30%は医療記録、22%は事前に定めた診断基準、22%は介護者の自白を根拠としていました。ただし、自白のみを分類根拠とした研究はごく少数でした。裁判所の判断や目撃証言を用いた研究はさらに少なく、実際には複数の方法が重複して用いられている例も多く見られました。重要な点として、これらの研究の多くが、診断の前提と結論が相互に影響し合う循環論法のリスクを、十分に排除できていなかったと評価されています。
著者らは、とりわけ、専門家の判断に依存した症例分類が広く用いられている点を問題視しています。その判断自体が、すでに「AHTである」という前提に影響されている可能性が高く、このような方法論では、AHT診断の正確性を独立して検証することが困難であると指摘しています。その結果、現在用いられている診断枠組みの妥当性には、大きな疑問が残ると結論づけています。
最終的に本論文は、AAPのテクニカルレポートが示す診断体系は、科学的に十分検証されたものとは言えず、より厳密で透明性の高い、真にエビデンスに基づいた研究と診断手法が早急に求められると強調しています。AHT診断は社会的影響が極めて大きいからこそ、経験や慣習に頼るのではなく、検証可能な科学的根拠に立脚する必要があるという、強い問題提起を行う内容といえるでしょう。
出典
Brook C, Rossant C, Squier W, Eriksson A, Melinek J, Schifrin B.
A critical review of the American Academy of Pediatrics technical report on abusive head trauma. 2025年。
眼科医 清澤のコメント
小児の揺さぶられっ子症候群に関する刑事裁判などでは、まず臨床的に揺さぶられっ子症候群と診断された多数の症例を集め、その共通点を抽出し、「その特徴を持つ新たな症例も同じ疾患(犯罪)である」と論じられることがあります。しかし、最初に集められた多数症例の診断そのものが正しいという保証がなければ、同じ前提を繰り返しているに過ぎず、あたかも真実性が高まっているかのような誤解を生む危険があります。このような理論構造は「循環論法」と呼ばれます。
特定の遺伝子異常を基準に疾患を定義し、その特徴を論じる場合とは本質的に異なる点です。今年、私はAHT(虐待性頭部外傷)が疑われた症例について、弁護側証人として関わる機会がありました。担当された弁護士によれば、彼が関与したAHT疑いの6例は連続6例のいずれもが無罪判決となったとのことです。一方で、検察側にも診断根拠を強化しようとする動きが見られます。今後の類似事件における司法判断の行方を、注意深く見守る必要があると感じています。



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