全身病と眼

[No.4615] 眼科医が知っておきたいトルソー症候群―網膜血管閉塞の背後に潜む全身疾患―

眼科医が知っておきたいトルソー症候群―網膜血管閉塞の背後に潜む全身疾患―

トルソー症候群(Trousseau症候群)とは、主に悪性腫瘍に伴って血液が固まりやすくなる「過凝固状態」により、全身に血栓を繰り返し生じる病態です。19世紀の内科医トルソーが自身の血栓症から膵癌を発見したことに由来し、現在では膵癌、胃癌、肺癌、卵巣癌などの腺癌に多く関連することが知られています。腫瘍細胞が分泌するムチンや組織因子が凝固系を活性化し、深部静脈血栓症や肺塞栓症だけでなく、脳梗塞や末梢動脈閉塞といった多彩な血栓症を引き起こします。その特徴は、原因不明で、多発性・再発性・移動性に血栓が生じる点にあります。

このトルソー症候群は、眼科領域でも重要な意味を持ちます。なぜなら、血栓症は網膜や視覚路にも生じるためです。代表的なものとして、まず網膜動脈閉塞症が挙げられます。突然の無痛性視力低下として発症し、通常は心臓や頸動脈由来の塞栓が原因とされますが、若年者や原因不明例、再発例では本症候群を疑う必要があります。次に網膜静脈閉塞症ですが、これは高血圧や動脈硬化が背景となることが多い一方で、全身的な過凝固状態でも発症し得ます。特に両眼性や短期間での再発例は注意が必要です。また、一過性黒内障として数分間の視力消失を繰り返す場合や、同名半盲などの視野障害として現れる場合には、後頭葉の脳梗塞が背景にある可能性もあり、これもトルソー症候群の一部として理解されます。さらに、非典型的な虚血性視神経症様の症例も鑑別に入ります。

眼科診療の現場では、「なぜこの患者に血管閉塞が起きたのか」を常に考える姿勢が重要です。特に、若年〜中年で典型的な危険因子が乏しい場合、抗血小板薬内服中にもかかわらず発症した場合、動脈と静脈の病変が混在する場合、あるいは短期間に再発する場合には、単なる動脈硬化性変化では説明がつかず、全身性の過凝固状態を疑うべきです。加えて、体重減少や倦怠感、食欲低下といった全身症状、あるいは既知の悪性腫瘍の存在は重要な手がかりとなります。

こうした症例に遭遇した場合、眼科でも一定のスクリーニング検査が可能です。中でもD-dimerは極めて重要で、血栓が形成・分解されていることを示す指標です。一般に1.0 μg/mL未満が正常とされ、これを超える場合は血栓の存在を疑います。フィブリノゲン、PT、APTT、血小板数、CRPなども参考になりますし、可能であればCEAやCA19-9などの腫瘍マーカーも併せて測定するとよいでしょう。特にD-dimerの著明な上昇は、トルソー症候群を疑う大きな契機となります。

異常を認めた場合には、速やかな内科紹介が重要です。実臨床では総合内科への紹介が最も適切で、そこから腫瘍内科、血液内科、脳神経内科などへ必要に応じて連携されます。内科では造影CTによる腫瘍検索、腫瘍マーカー測定、凝固系の詳細評価、心エコーによる塞栓源検索、脳MRIによる多発梗塞の評価などが行われます。

治療の基本は抗凝固療法と原疾患である悪性腫瘍の治療です。抗血小板薬では不十分なことが多く、ヘパリン(低分子ヘパリンを含む)が第一選択とされます。近年ではDOACが使用されることもありますが、症例ごとの判断が必要です。同時に、腫瘍に対する手術や化学療法が行われ、これにより過凝固状態の改善が期待されます。ただし再発も多く、長期の抗凝固療法が必要となることも少なくありません。

眼科医にとって最も重要なのは、「網膜血管閉塞は必ずしも眼だけの病気ではない」という認識です。原因の説明がつかない血管イベントに遭遇したとき、トルソー症候群を念頭に置き、D-dimer測定と内科紹介につなげることが患者の予後を左右する可能性があります。眼科が全身疾患の入り口となることもあるという視点を持つことが、これからの診療においてますます重要になるでしょう。

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