社会・経済

[No.3850] 奇跡的に再公開された名作を観る機会 ―『この世界の片隅に』

奇跡的に再公開された名作を観る機会 ―『この世界の片隅に』

SNSを眺めていたところ、映画解説で『この世界の片隅に』という作品が再び話題になっているのを目にしました。幸運にも、現在この映画が期間限定でNetflixに再公開されていることを知り、臨時の配信枠で全編を観ることができました。まさに「奇跡的なタイミング」だったと思います。もし今お読みの方も視聴可能な環境があれば、ぜひNetflixで検索してみてください。作品名を入れるとすぐに見つかるはずです。

この体験をきっかけに、本作の来歴やあらすじを改めて振り返り、まだご覧になっていない方にぜひ一度触れていただきたいと思います。


戦時下の「日常」を描いた珠玉のアニメーション映画

戦争映画と聞くと、多くの方は「戦闘シーン」や「英雄譚」を連想するでしょう。しかし片渕須直監督による長編アニメーション映画『この世界の片隅に』(2016年公開)は、戦争そのものではなく「戦争に翻弄されながらも、日常を懸命に生きる人々」を描いた作品です。原作はこうの史代氏の漫画(2007年連載開始)。クラウドファンディングの支援を受け、多くの市民の思いが形となって完成した映画でした。公開後は国内外で高い評価を受け、のちに新たな場面を追加した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(2019年版)も上映されました。


あらすじ

舞台は昭和10年代から20年代。広島市江波で生まれ育ったすずは、のんびりした性格で絵を描くことが好きな少女です。やがて縁談により、軍港の町・呉の北條家へ嫁ぐことになります。見知らぬ土地での生活に戸惑いながらも、姑や夫・周作の家族とともに暮らし、工夫を凝らして食卓を整え、畑を耕し、ささやかな日常を積み重ねていきます。

しかし、戦況が悪化するにつれ、すずの生活は次第に暗い影に覆われていきます。空襲が頻発し、物資不足が深刻化。やがて呉の町も激しい爆撃にさらされ、すず自身の人生を揺るがす悲劇が訪れます。最も衝撃的なのは、空襲の中で片腕を失ってしまう出来事です。それは彼女にとって単なる身体の損失にとどまらず、絵を描く喜びや日常の営みを奪うものでした。さらに、幼なじみや近しい人々との別れも重なり、すずの心は深い絶望に追い込まれていきます。

1945年8月、広島に原爆が投下されます。故郷が壊滅的な被害を受けたことを知ったすずは、もはや「帰る場所」を失います。それでも、夫や周囲の人々との絆を支えに「この世界の片隅で生きる」決意を固めます。


すずが失ったもの

物語を通して、すずは多くのものを失います。

  • 身体の一部(片腕):創作や家事といった日常の基盤そのものが揺らぎます。

  • 幼なじみとの絆:幼い頃から心を通わせた人物が戦争に奪われる痛み。

  • 故郷・広島:原爆によって、幼少期の記憶や居場所そのものを喪失。

  • 当たり前の生活:空襲や配給不足が、ささやかな喜びをも奪っていきます。

しかし、すずは完全に希望を失うことはありません。大切なものを失っても、残されたものを抱きしめ、前に進もうとする姿が描かれるのです。


ラストシーンの解釈

終戦後、すずは廃墟の中でも再び家族と食卓を囲み、子どもを笑顔で迎え入れる場面が描かれます。その姿は、戦争が奪ったものの大きさを突きつけると同時に、「日常を取り戻そうとする人間の強さ」を象徴しています。

ラストにすずが涙を流しながらも新しい命を抱きしめる姿は、「失ったものを数えるのではなく、残されたもので未来を紡いでいく」という強いメッセージと解釈できます。それは観る者に、戦争の悲惨さの中にあっても人は再び立ち上がれるという希望を示しているのです。


本作の魅力

  • 庶民の視点で描かれる戦争

     戦闘や軍事ではなく、日常の暮らしが中心に描かれることで、戦争の影響の恐ろしさがより身近に迫ります。

  • 優しい映像と厳しい現実の対比

     柔らかなアニメーションであるがゆえに、失われるものの重さが観る者の心に強く残ります。

  • 普遍的なメッセージ

     「どんな状況でも人は日常を生きようとする」姿は、国や時代を越えて普遍的に響きます。


まとめ

『この世界の片隅に』は、戦争の悲惨さを描くだけでなく、「人が失ったもの」と「それでも残された希望」の両方を静かに描き出す普遍的な作品です。Netflixで再び出会える今、ぜひ一度ご覧いただきたいと思います。観終えたあと、きっと自分の日常や人とのつながりを、これまで以上に尊く感じられるはずです。

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