清澤のコメント:新刊『イルカと心は通じるか 海獣学者の孤軍奮闘記』(新潮新書)から、研究人生で一番楽しかったという博士課程のエピソードを抜粋した記事があった。研究者としての仲間意識なども重要なのだが、此処では眼科医として興味を惹かれる目に関するエピソードを中心に拾ってみる。
第1回 イルカの「眼」を解剖した理由
◎音で教えたらいいか、視覚がいいか:
イルカの聴覚の研究は1970年代以前からかなりの水準まで達していた。それに対して視覚の分野は圧倒的にやるべきことがたくさんあった。
◎眼を知っておきたい。眼を解剖してみる。ちなみに眼の大きさは、体長2メートルくらいのイルカで直径4センチほど。ピンポン玉くらい。また、体長8メートルのミンククジラでは直径10センチ。身体のわりに意外と眼は小さい。
◎眼で調べたことは構造や網膜の特徴、それから視力と視軸である。眼の基本的な構造はみな同じであった。イルカだからヒトと違って「なにか特別な」というようなことはなく、ヒトの眼のつくりと同じである。また、眼には網膜というものがある。網膜は脳の一部。その構造はやはりどの種もみな同じであった。眼のつくりも網膜のつくりも、ヒトもイルカも変わらない。ただイルカの眼の網膜は夜行性の動物の構造に似ている。これらは暗い場所でわずかな光を有効に取り込む構造(タペータムと呼ばれる)があるためで、夜行性動物に共通した特性である。
第2回:実はヒト並みの見え方をしていた?調査でわかったイルカの視力
イルカでもヒトの健康診断のような方法(行動実験)で視力を測ることはできる。飼育も訓練もできないイルカの視力はわからないのだろうか。
◎眼の細胞からイルカの視力を知ることができる。網膜中の神経節細胞というものの密度を測定し、そこから視力がわかる。
眼を切り開いて網膜を取り出し、それを染色して細胞を染め分ける。おおむねヒトの視力で言うところの0.1くらいである。こうして眼球の網膜から求めた視力と行動実験による視力検査で求めた視力とではあまり差がない。
◎ヒトの視軸は一本、イルカは二本:この網膜を調べてわかったことはもう一つある。よく見える方向を視軸という。ヒトは視軸が一本、つまりよく見えるのは前方に一方向のみである。ところがイルカにはそれが二方向ある。細胞の分布がそうなっている。ひとつは前方、もうひとつは斜め後方。イルカの左右の眼はバラバラに機能しているらしい。
◎視力を測るのに、脳波を測っているのは動物だけではない。眼を閉じれば眼からの光の情報が入らず、眼を開ければ光が入るから、それによって脳波に違いが生じる。イルカの脳波測定で最も悩んだのはどこで測定するかということ。
第3回:
大事な動物を使わせてもらうので、万一のことがあってはいけない。また、この先、水族館にさんざん迷惑をかけることはわかっているから、その恩は体で返すしかない。
◎水族館での実習は実験のためとかではなく、やがて水族館という場所で研究するために、まずは水族館というものを経験しておこうと考えたものだった。これはとても重要なこと。それは水族館の実習とは単に経験をするということだけでなく、自分と水族館との相性を確かめることにもなるからである。
◎ 測定自体は3日間の計画だったが、その3か月前から鴨川シーワールドに入り、準備を兼ねて実習をした。場所を借りて研究するという自分の立場について、自覚が芽生えた瞬間である。実習では、毎朝職員さんたちと同じくらいの時間に水族館に入り、とにかく働いた。いろいろ教わったし、怒鳴られたり怒られたりもした。
◎実習の合間に、脳波の測定については何度もリハーサルを行った。実際にイルカを水から取り上げプールサイドに置き、一連の準備操作や測定するふりをして、そして再び水槽へ返すということを何度もくり返した。リハーサルと言っても、もちろん水族館閉館後でなければできない。また何人ものスタッフに手伝ってもらう必要があり、水族館にはずいぶん迷惑をかけてしまった。
ただ、そういう練習は測定のためもあるが、本番での事故を減らす、時間を無駄にしない、そして、何より動物に余計な負担をかけないことにもなる。そうしたことをくり返しながら準備と気持ちを整え、いよいよ測定となった。
◎まず水槽中にいるイルカを取り上げ、測定場所へ運び込む。イルカは濡らしたマットの上に置かれた。測定は長時間にわたるが、陸上での測定のため身体が乾燥してはたいへんなので、眼や呼吸孔などの重要な部位と電極付近をのぞいて全身にワセリンを塗りたくる。そして電極を装着し、身体には濡れた毛布をかけた。
いよいよ測定が始まる。そこにいる全員、イルカに何かあってはいけないという猛烈な緊迫感があり、数時間におよぶ測定のあいだ、ほとんどだれも口を開かない。こうした測定は3日間行い、さらにそれを2年行った。測定は見事に成功、鮮明に脳波が取れた。
◎結果:測定はさまざまに条件を変えて行ったが、光の条件によって脳波の特徴も変化した。目から入った光が脳で処理されている証拠である。おもしろいのは、明るい光のもとでは脳波は活発になり、暗い光になるとゆったりした波形が多くなったこと。ヒトと同じである。
なぜ漁網にかかるのか
◎博士論文には、流し網への海獣類の混獲メカニズムの解明に関する成果も含めることにした。簡単に言えば、なぜ網にかかるのかということを調べたい。
漁網というのは薄い半透明な緑色をしていて、これを海中におろすと周囲の薄暗さに網の色合いが溶け込んで、たぶんほとんど見えない。つまりコントラストが小さいのだ。だから網に気づかず海獣たちは突っ込んでいき、あるいはかかっているサカナを横取りしようとして網にからまり、溺死してしまうのである。
◎実際どのくらいのコントラストが見えるのかを知るため、コントラストと視覚の関係を調べてみることにした。実験は、白い板に描かれたさまざまな明度の円と白い板を水中で見せて、円が描かれたほうを選ばせるというもの。どこまで円が薄くなれば白色板と区別がつかなくなるかを調べた。
明るさも変えたかったが、実験は屋外で行ったので明るさを設定することができない。そこで、晴天の日中、夕刻、月夜、新月のとき。それぞれ明るさが違うので、そうした状況のもとで実験すればよい。
ところで、このうち新月の夜とは、つまり真っ暗な夜。そんな暗さでもイルカはちゃんと図形を見て選んでいた。ヒトの眼には見えないような暗さでもイルカにはちゃんと見えている。
実験の結果:いくら明るくともコントラストが小さいと正解率が低く、いくら暗くともコントラストが大きいと正解率が高いことがわかった。コントラストの大小が見え方を左右する……やはりコントラストは大事なのだ。
◎やっぱりイルカには漁網が見えていない
網を白色、黒色、緑色のプラスチック板に貼り付け、見えるかどうかをためした。結果は、白い板に貼り付けた網は見えるが、緑や黒の板ではほとんど網が見えない。緑や黒の板は実際の海の中の色を想定したもので、やはり海ではそうして網が見えず、からまってしまうのか。
今にして思うと、実はこの博士課程の時代が一番楽しかった。自分がやりたいことが思う存分できた気がする。博士課程というのはそういう時間かもしれない。
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