水資源・環境学会で『環境問題の現場を歩く』シリーズ②という事で「長良川河口堰(伊藤達也)と八ッ場ダム(梶原健嗣)を歩く」という冊子が作成され、著者のお一人である梶原健嗣先生からこの冊子をいただきました。採録して紹介したいと思います。(8月26日誤字修正しました)
1,長良川河口堰を歩く: 伊藤達也
長良川河口堰は東名高速道路の長嶋インターチェンジ、あるいは桑名駅から行くことができるあたりの長良川河口にある。ここに堰を作ることで塩水と真水が混じた汽水域が失われ、ヘドロも堆積したという事です。元は水資源の有効利用を目指したものであったそうですが、工業用水の需要は当初から全くなく、生活用水の需要も一定以上には増えなかったそうです。戦国時代末期、このあたりは輪中と呼ばれる川中島に一向宗信徒が立てこもって信長に対抗した地域であったと私は記憶しています。この物語で私の興味を引いたのは、長良川の遥か上流にある郡上八幡市付近にまでこの堰が影響をしたという事でした。郡上八幡市に合併された旧美並村には古川林業という有限会社があって、私の従兄が今も林業に従事しています。そこに小学生のころ遊びに行きました。水中を見られる箱を覗くと小魚が多く、岩陰には野生のウナギも顔を出していました。この川のウナギは神の使いであり、戦後に捕食した他所者は住民に半殺しの目に遭ったとその時に聞きました。そのような豊かな自然に囲まれた状況はまだ続いているのでしょうか?
2,八ッ場ダムを歩く 梶原健嗣
(1)著者の八ッダムとの出会い。(2)やんばダムは群馬県吾妻郡長野原にある重力式コンクリートダム。このダムは治水・利水が目的の多目的ダム。その管理は利根川統合ダム管理事務所。(3)ようこそ、ダムに沈む温泉へ:著者が川原湯温泉駅に初めて行ったのは2005年だったという。(4)カスリーン台風と「洪水の資源化」:ダム計画は水没340世帯。1170人という人々が影響を受けるダム計画の発端は1947年のカスリーン台風で計画は1952年だった。この計画は一時頓挫したが、その原因は吾妻川が強い酸性(Ph2-3)であったことだという。(5)中和事業による計画の「復活」:この問題は中和工場の建設で解決された。1964年には地域人口の増加なども重なってオリンピック渇水問題も起きた。都市の地下水くみ上げは東京の地盤沈下問題も起こした。首都圏を背後に抱える利根川水系はその最大のターゲットだった。(6)計画改定と住民訴訟。「現地再検ずり上がり方式」が目指され、前例のない30メートルを超える切り土、盛り土が行われた。住民訴訟というのは米国の納税者訴訟を参考に、戦後地方自治法の中に設けられた客観訴訟であった。地方自治体の財務会計行為を、住民は違法な財政支出の差し止めなどで対抗できる。(7)司法判断;結論として、住民訴訟は、最高裁まで6都県すべてで住民の主張は2015年までに退けられた。(8)政権交代とダム事業の中止表明:「コンクリートから人へ」をスローガンとする民主党は2009年9月18日に八ッ場ダムの建設中止を発表した。しかし、2011年11月に報告書が出され、12月に政府は八ッ場ダム事業の建設再開を決定した。(9)現地ガイド:(10)終わりに;総工事費5320億円で、日本のダム建設史上最高額。現状では、地域の喪失・変容という社会環境問題の様相が色濃い。筆者は現地を訪れることに読者を誘う。なお、私清澤は、著者の梶原氏が文末の参考文献の中に、私の従妹である「嶋津暉之、清澤洋子(2011)、八ッ場ダム 過去、現在、そして未来、岩波書店」の一冊をを加えて戴いたことに感謝したい。
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