清澤のコメント:最近「天正壬午の変」などの解説動画を見たり、徳川家の足軽の話を読み、天正十年という年に大変興味を持っています。歴史のターニングポイントですね。現代でも、今年か来年あたりにそれがありそうな気も致します。先ずウィキペディアで天正10年の国内の出来事を見てみましょう。毛利の怪僧恵瓊は本能寺の変を10年前に予告していたとも言います。(天正元年十二月に毛利の外交僧・安国寺恵瓊によって書かれた、信長の滅亡を予言した有名な書状がある。「信長の代五年、三年は持たるべく候、明年辺(あたり)は公家などにならるべく候かと見及び申し候、左(さ)候て後、高ころび(転び)にあをのけ(仰のけ)にころばれ候ずると見え申し候」恵瓊は信長が五年程度で急速に没滅するであろうと予言している。)
※10月4日(天正10年9月18日)まではユリウス暦による日付
- 1月24日(天正10年1月1日) – 安土城に諸将ら多数が参賀、人の重みで石垣が崩れ死者が出る。織田信長自ら見物料を取り、本丸・御幸(みゆき)の間などを一般公開。
- 2月20日(天正10年1月28日) – 天正遣欧少年使節が長崎を出航。
- 2月25日(天正10年2月3日) – 織田信長、武田攻めの陣触れ。
- 4月3日(天正10年3月11日) – 武田勝頼らが自害し、武田家が滅亡(天目山の戦い)
- 6月21日(天正10年6月2日) – 本能寺の変 (この後に徳川家康の伊賀越えが決行された。三河に帰国したときには既に信州と甲州への侵攻を決めていた。)
- 7月2日(天正10年6月13日) – 山崎の戦い (秀吉が明智光秀に勝利)
- 7月5日 – 8日(天正10年6月16日 – 19日)- 神流川の戦い (滝川―北条)
- 7月16日(天正10年6月27日)- 清洲会議。(秀吉が織田家内でイニシアチブをとった)
- 7月27日(天正10年7月8日) – 羽柴秀吉が山城国で指出検地に着手する。(京都を含む山城国を秀吉は抑えた)
- 9月27日(天正10年9月11日) – 柴田勝家がお市の方に織田信長の百日忌を京都の妙心寺で執行させる。
- 11月10日(天正10年10月15日) – 秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を執行。
- このほか浅間山の大噴火もこの年です。明智光秀は本能寺の変の首謀者では無かったとかと言ったまことしやかな説も囁かれています。
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