脳は脂肪をエネルギーに使える?―約100年の常識を覆す新しい研究
清澤のコメント:
私が主に歩んできた研究の手段は、視覚症状のあるヒトの脳糖代謝をポジトロン断層法(PET)で見るというものでした。師事したライビッチ博士は、ヒトで初めて18F-FDG(フルオロデオキシグルコース)を用いて脳のブドウ糖代謝を測定した研究者です。また、FDGを世界で初めて自動合成した井戸達夫教授の研究にも参加する機会を得ました。
当時の“セントラルドグマ”は、「脳はエネルギー源としてグルコース(ブドウ糖)しか使わない」というものでした。そのため、今回紹介する「脳が脂肪を燃料として使える」という研究結果は、驚天動地の発見といっても過言ではありません。今後は、脂肪代謝を示せる新たなPETリガンドが登場するかもしれません。
常識を覆した発見:脳も脂肪を燃やしてATPを作っていた
ニューヨーク市のワイル・コーネル医科大学で、タイムリー・ライアン博士が率いる研究チームは、「脳が脂肪を燃料として使えるか」という長年の疑問に挑戦しました。
これまでの定説では、筋肉など他の臓器は脂肪からエネルギー(ATP)を作れるが、脳はそれができないと考えられていました。その根拠は、1933年の実験に遡ります。当時、研究者たちは脂肪を与えた脳組織で呼吸反応が見られなかったため、「脳は脂肪を使えない」と結論付けたのです。
しかし、ライアン博士らの研究では、マウスの神経細胞(シナプス)に脂質滴(トリグリセリドの小さなかたまり)が存在し、それが分解されて脂肪酸になり、ミトコンドリアでATPを生成していることを示しました。これは、運動時に筋肉が脂肪を燃焼するメカニズムと酷似しており、必要に応じて脂肪を使う「バックアップ燃料系」が脳にも存在することを示しています。
方法と検証:脂質代謝酵素を阻害するとATPが作れない
さらにこのチームは、脂質代謝に関わる酵素「DDHD2」を遺伝的に欠損させたマウスや、酵素を薬剤で阻害した実験も行いました。その結果、神経細胞に脂質滴が異常に蓄積され、ATP生成が止まってしまうという現象を観察しました。
このことから、脂質を分解してATPを生成する過程が、脳のエネルギー維持に重要であることが実証されました。また、このプロセスは可逆的であり、酵素の働きを戻すと再び脂肪代謝が起こることも確認されています。
結論:グルコースがなくても、脳は“脂肪で動ける”
グルコースが不足した状況でも、脳が脂肪を使ってATPを作れるということが示されたのです。これは、てんかんの治療にケトン食(高脂肪・低糖質)が効果的であることとも一致します。
この研究は、パーキンソン病や認知症などの神経変性疾患と脂質代謝異常の関係性を解明する鍵にもなる可能性があります。特に高齢になるとグルコース代謝が低下するため、脂肪を代替燃料として活用できるメカニズムの理解は、老化脳への新しい介入法を示唆します。
今後の展望:脂肪代謝を可視化するリガンドの開発に期待
清澤が研究してきたPET技術では、これまでグルコース代謝の可視化が中心でした。今後は、脂質代謝を捉える新たな分子イメージング技術(たとえば、脂肪酸代謝やトリグリセリド分解を示すPETリガンド)の開発が期待されます。これが実現すれば、脳内エネルギー動態の全体像がより明確になり、脳疾患の予防や治療に大きな一歩となるでしょう。
出典:
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Medscape. Disproving Dogma: How the Brain Uses Fat as Fuel.
https://www.medscape.com/viewarticle/1007779 -
Nature Metabolism, 2025. タイムリー・ライアンらによる論文より。
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