眼瞼痙攣

[No.5] 中国清時代末の西太后は片側顔面けいれんに苦しんでいたらしい

清澤のコメント;浅田次郎著の中原の虹を読んでいます。講談社文庫の中原の虹2巻の31章(168ページ)から少し長いですが採録します。
先ず西太皇の略歴から。巷では、日清戦争のころに中国清の政治を壟断した悪女とされていますが、西欧からの侵略から中国を守ろうと苦労した女性であったようです。
そのあとに、彼女が片側顔面けいれんを患っていたと思われる新田次郎の小説の記述を採録します。今であれば、ボトックス注射やジャネッタ手術などが行われるようになりましたが、患者サイドから見れば、今も昔も苦しさはあまり変わりないのかもしれません。

経歴せいたいこう【西太后】 1835‐1908
中国,清末の同治・光緒年間(1862‐1908)の最高権力者。咸豊帝の妃,同治帝の母。満州族,エホナラ氏の出。1852年(咸豊2)咸豊帝の後宮に入り,56年皇子載淳を生んだ。61年咸豊帝が死ぬと載淳が即位し,年号が祺祥と改められ,彼女は皇帝の生母として慈禧太后と尊称されたが,同年11月恭親王と組んで宮廷クーデタを起こして先帝の寵臣を処刑し,年号を同治と改め,先帝の皇后であった慈安太后とともに垂簾聴政を始めた。同治帝・光緒帝(徳宗)の摂政となって政治を独占。変法自強運動を弾圧して光緒帝を幽閉、義和団事件を利用して列強に宣戦するなど守旧派の中心となった。
光緒帝の死の翌日,光緒34年10月22日溥儀(ふぎ)を次の皇帝ときめて死去。74歳

―――小説の記載を引用―――
5年ほど前から西太后は、顔面神経痛(清澤注:おそらく片側顔面けいれんの誤りだろう)を患っていた。医師は病を心労によるものと診立てて整容を勧めたが、世界一気丈な患者は順わなかった。症状はこの一月ばかりの間に急激な進行をし、ために西太后の顔の右半分は醜く歪んでしまった。頬は石のように固まり唇と眦は見えざる鬼の手に掴まれているように見えた。
体中を蝕むどの病にもまして、太后はこの病状を怖れた。齢なりに美しく老いた容貌の毀れるさまは、痛みよりも我慢がならなかった。そして、滅びるのではなく変形してしまう肉体が、おのが身を国家であると自覚する太后をいっそう戦かせた。

城内の殿を移動するときは、近ければ愛玩する狆とともに歩くか、遠ければ4人かきの椅子かごに乗るのが習慣であったが、この病が進んでからは顔の見えぬ輿を使うことが常となった。
謁見を賜うときは、かつて幼帝の背後でそうしたように、垂簾の奥に座った。太后の行くところどころにも必ず置かれていた大鏡は全て片付けられ、硝子窓には布がかけられ、漆塗りの椀さえも陶器に代えられた。嗜みとしての手鏡だけは、いつも宝座のかたわらにあったが、それは伏せられたまま太后の手が触れることはなかった。―――

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