小児の神経疾患に広がる「遺伝子治療」
――いま何ができ、どんな課題があるのか(やさしい解説)
近年「遺伝子治療」という言葉を耳にする機会が増えました。これは、従来は原因に対する根本治療が困難だった病気に対し、遺伝子そのものに働きかけて治療する新しいアプローチです。1970年代に構想が生まれてから数十年、初期には安全性の問題で開発が停滞した時期もありました。しかしウイルスベクターの改良が進み、2010年代以降は安全性の改善とともに複数の治療薬が実用化され、小児神経領域では急速に臨床応用が広がっています。
遺伝子治療には、壊れた遺伝子を補う「遺伝子導入」と、遺伝子そのものを改変する「遺伝子編集」があります。とくに小児神経疾患では、体の中で働かなくなった遺伝子の代わりに正常な遺伝子を届ける「遺伝子導入」が中心です。その運び手として活躍しているのがアデノ随伴ウイルス、いわゆるAAVベクターです。AAVは病原性がなく、人に感染しても病気を起こさない性質を持ち、しかも神経細胞のように分裂しにくい細胞にも遺伝子を届けることができます。この特徴が脳・脊髄・筋肉を障害する小児神経疾患との相性の良さにつながり、世界中で研究が進むきっかけとなりました。
体へ遺伝子を届ける方法には、体内に直接ウイルスベクターを投与する「体内法」と、細胞を体外で遺伝子操作して戻す「体外法」があります。小児神経疾患では体内法が主流で、治療の目的に応じて静脈投与、髄腔内投与、脳内投与、あるいは網膜下投与などの経路を選びます。局所投与は少ない量で遺伝子を届けられるうえに、免疫反応を抑えやすいという利点もあります。
AAVを使った治療薬は世界で8種類が承認されていますが、日本で使えるものは脊髄性筋萎縮症(SMA)のゾルゲンスマ、RPE65関連遺伝性網膜ジストロフィーのルクスターナ、そしてデュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)に対するエレビジスの3剤です。さらに世界では、DMD、ミオチュブラーミオパチー、OTC欠損症、ムコ多糖症など多数の小児疾患で治験が進行中で、日本でもGLUT1欠損症に対して自治医科大学が主導する治験が2025年に始まりました。
代表的な疾患として、SMAとDMDが挙げられます。SMAはSMN1遺伝子が働かないことで乳児期から筋力が急速に低下する重い疾患ですが、ゾルゲンスマによる早期治療を受けた子どもでは、歩行を含む運動発達が健常児に近い経過をたどる例もあり、世界5000例以上で効果が報告されています。一方でDMDでは、全身の筋肉に遺伝子を届ける必要があるため大量投与が避けられず、免疫反応や効果の評価をめぐる議論が続いています。とはいえ、いずれの疾患も「原因に対して治療する」という道が開かれたことの意義は大きく、今後の改良と開発が期待されます。
もちろん課題も少なくありません。大量投与時の免疫反応や肝障害、血小板減少などの有害事象は常に注意が必要であり、製造コストの高さや国産品の不足も問題として残ります。また、AAVを投与すると体がウイルスに対する抗体を作るため、原則として再投与が難しい点も大きな壁です。さらに神経細胞がすでに大きく失われた後では効果が出にくいため、診断と治療のタイミングが極めて重要になります。その一方で、AAVはサルの脳で15年、ヒトで5年以上発現が続いた報告もあり、一度の治療で長期効果が期待できるという大きなメリットも認められています。
遺伝子治療は構想から半世紀を経て、対症療法しかなかった難病に対し、根本的治療の道を切り開きつつあります。まだ課題は残るとはいえ、SMAのように劇的な効果を示す疾患が登場し、今後はさらに対象が広がっていくと考えられます。医療の歴史の中でも大きな転換点に差し掛かっている領域と言えるでしょう。
■ 出典
村松一洋「小児神経疾患領域の遺伝子治療の現状と課題」
『日本医師会雑誌』第154巻 第8号、2025年11月、pp. 854–855.
■ 清澤のコメント
小児神経疾患の分野では、これまで遺伝の問題として諦めざるを得なかった病気に対し、遺伝子治療が新しい希望を与えています。網膜ジストロフィーを含む眼の遺伝疾患でも、同じ原理による治療が実際に始まっており、眼科医としても大きな時代の変化を感じます。病気によっては、遺伝子レベルの異常であっても治療が可能な時代が確実に近づいています。



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