小児の眼科疾患

[No.4086] 出生前の殺虫剤クロルピリホス曝露と子どもの脳発達異常;論文紹介

出生前の殺虫剤クロルピリホス曝露と子どもの脳発達異常

――JAMA Neurology報告と日本の“佐久の奇病”との接点――

2025年8月に米国医学誌 JAMA Neurology に掲載された最新研究が、妊娠中に農薬クロルピリホス(chlorpyrifos, CPF)に曝露された子どもたちの脳発達に長期的な影響を及ぼす可能性を報告しました。

クロルピリホスは「有機リン系殺虫剤」と呼ばれる種類に属します。これは神経に作用する化学物質で、昆虫の神経伝達物質分解酵素(コリンエステラーゼ)を阻害し、殺虫効果を示します。しかし、その毒性は人間の神経系にも及ぶことが知られています。

この研究は、1998年から2015年にかけて米ニューヨーク市で行われた前向き妊娠コホート調査に基づくもので、アフリカ系アメリカ人およびドミニカ系の母親とその子ども270人を対象にしました。出生時の母体血液から測定したクロルピリホス濃度と、子どもが6〜14歳になったときのMRI画像データを比較したのです。

結果として、出生前の曝露量が高いほど、脳の前頭皮質や側頭皮質が厚くなり、白質の量が減少するという異常な構造変化が見られました。脳全体の血流やニューロン密度も低下し、細かい運動能力や動作プログラミング能力も有意に悪化していました。これらの変化は、酸化ストレスやミトコンドリア障害、神経炎症などを介して生じると考えられています。

研究チームは、クロルピリホスによる胎児期の神経発達阻害が、思春期以降まで持続的に脳の構造や行動機能に影響を与える可能性を指摘しています。

この薬剤はアメリカではすでに家庭用としては禁止され、農業用途でも規制が進んでいます。日本では明確な禁止措置こそ出ていないものの、農薬としての登録は縮小傾向にあり、輸入制限も検討されています。かつての製品名としては「ダーズバン」「ロスバン」などが知られています。

ここで注目すべきは、このクロルピリホスが「有機リン系殺虫剤」である点です。有機リン中毒の問題は、日本でも1970年代から知られていました。北里大学の石川哲教授らが長野県佐久地方で報告した「佐久の奇病」と呼ばれた集団発症は、農薬スミチオン(有機リン化合物)の慢性中毒が原因と考えられたものです。当時、地域の住民に手足のしびれや記憶障害、神経症状が多発し、社会的な問題となりました。

つまり、今回報告された「胎児期のクロルピリホス曝露による脳構造変化」は、1970年代の日本で観察された“有機リン系殺虫剤による神経障害”と同じ系譜にある現象と考えられます。化学物質の種類や濃度、曝露時期は異なっても、神経の発達・代謝に対する有機リンの影響という本質は共通しているのです。

この研究は、私たちに「目に見えない環境曝露が、未来の子どもの健康にどう影響するか」という重要な課題を投げかけています。日本でも、農薬の使用や食品の残留基準が厳しく管理されてはいますが、妊婦や小児の曝露に対する感受性は成人より高いことを改めて意識すべきでしょう。


出典:

Peterson BS, Delavari S, Bansal R, et al. Brain Abnormalities in Children Exposed Prenatally to the Pesticide Chlorpyrifos. JAMA Neurology. Published online August 18, 2025;82(10):1057-1068. doi:10.1001/jamaneurol.2025.2818


清澤のコメント

脳の神経細胞や髄鞘形成は胎児期にもっとも影響を受けやすい時期です。クロルピリホスのような有機リン系物質が胎児の脳発達を妨げるという今回の報告は、古くから知られる有機リン中毒の延長線上にある問題です。眼科領域では、視覚情報処理や視運動協調にも中枢神経の働きが深く関わります。したがって、このような曝露による微細な神経変化は、目の使い方や視覚発達にも影響を及ぼす可能性があります。環境化学物質の管理は、目を含む「神経系全体の健康」を守るためにも、今後さらに注目されるべきテーマです。

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