小児の眼科疾患

[No.4542] 乳児虐待症候群と眼底出血をめぐる議論―福岡地裁無罪判決を契機に

乳児虐待症候群と眼底出血をめぐる議論―福岡地裁無罪判決を契機に

乳児の頭部外傷をめぐる刑事裁判では、近年、日本でも無罪判決が相次いでいます。特に争点となることが多いのが、いわゆる乳児虐待による頭部外傷(AHT: abusive head trauma)、かつて揺さぶられっ子症候群(SBS: shaken baby syndrome)と呼ばれてきた病態です。この診断では、硬膜下血腫、脳の腫れ、広範な眼底出血といった所見が組み合わさると虐待による外力を疑うとされてきました。しかし近年、この考え方に対しては医学界と司法の双方で議論が続いています。最大の論点の一つは「揺さぶり程度の外力で、広範な眼底出血や脳損傷が本当に起こり得るのか」という問題です。乳児虐待事件では眼底出血が診断の重要な根拠として扱われることが多く、眼科医の意見書が裁判の証拠として提出されることもありますが、物理学や生体力学の研究者の中には、人間が腕の力で乳児を揺さぶっただけで脳や眼底に重大な損傷を起こすほどの加速度が発生するのかについて疑問を呈する研究もあります。

米国ではこの問題を巡って司法判断にも変化が見られ、ニュージャージー州最高裁判所は揺さぶりのみで重篤な損傷が生じるとする医学的仮説について、生体力学的裏付けが十分とは言えない点を指摘し、医師の診断意見をそのまま証拠として採用することに慎重な姿勢を示しました。こうした流れは欧米の裁判でも議論を呼び、専門家の見解が分かれる事例が増えています。一方、日本眼科学会は乳児虐待に関する眼底所見の診断手引きを公表しており、特定の広範な眼底出血のパターンは虐待による頭部外傷を強く疑わせると説明しています。しかし私は以前から、この点には慎重な議論が必要ではないかと考えてきました。眼底出血は確かに虐待症例で見られることがありますが、それが揺さぶりという機序で必ず生じると断定できるかどうかについては、医学的にもまだ検討の余地があると思われるからです。そのため私は日本眼科学会編集部に対し、この診断手引きの内容が現在の世界的な議論の状況と必ずしも一致していない可能性があるとして早期の見直しを求める編集者宛書簡を提出しました。しかし学会からは、十分な審議を経て公表されたものであり現時点では対応の予定はないという趣旨の返答がありました。こうした医学的議論が続く中で、実際の刑事裁判でも判断が分かれる事例が増えています。

2026年3月3日、福岡地裁は乳児死亡事件で母親に無罪判決を言い渡しました。この事件は2018年、福岡県川崎町の自宅で当時11か月の女児が死亡したもので、検察は母親が頭部に強い衝撃を与える暴行を加えたとして傷害致死罪で起訴し懲役8年を求刑していました。裁判では女児の死亡原因が虐待による頭部外傷だったのかが最大の争点となりました。母親側は無罪を主張し、母親がてんかんを患っていたため発作を起こして子どもを抱いたまま転倒した可能性を指摘しました。判決ではまず母親が以前からてんかん発作を繰り返していた事実を認定し、発作による記憶消失があれば当時の状況を正確に説明できないこともあり得るとしました。さらに頭部外傷の原因については法廷で証言した専門家の意見が分かれ、裁判所は弁護側医師の指摘した疑問を合理的に解消できているかという観点から検討しました。その結果、脳内の腫れや骨折は必ずしも非常に強い外力でなくても生じる可能性があり、てんかん発作による転倒事故でも同様の傷害が起きた可能性を否定できないとして、暴行があったと断定することはできないと判断しました。約3年半勾留されていた母親は判決後、家族が待っていたのでほっとしたと語りました。

乳児の頭部外傷は非常に重篤であり、虐待を早期に発見することは社会にとって重要です。しかし同時に、医学的に確定していない仮説を刑事裁判の証拠として扱う場合には慎重さが求められます。眼科診療の現場でも眼底出血はさまざまな原因で見られる所見であり、外傷だけでなく低酸素状態、けいれん発作、感染症、凝固異常など多様な背景で生じる可能性があります。したがって眼底出血の存在を直ちに虐待の証拠と結びつけることには、医学的にも慎重な検討が必要だと思われます。今回の福岡地裁判決は、医学的証拠の解釈が分かれる場合には刑事裁判において合理的な疑いが残る限り有罪とはできないという原則を改めて示したものとも言えるでしょう。乳児虐待の防止はもちろん重要ですが、その診断の根拠となる医学的知見についても、今後さらに冷静で継続的な検討が求められていると感じます。

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