小児の眼科疾患

[No.4579] 乳児虐待と網膜出血 ― 国司事件判決を前に考える医学と司法

乳児虐待と網膜出血 ― 国司事件判決を前に考える医学と司法

乳児虐待は古くから知られている問題で、医学の世界でも長く研究されてきました。乳児虐待が疑われる場合、古くから注目されてきた所見として、骨折や頭蓋内出血と並び「網膜出血(眼の奥の出血)」があります。眼底に広範な出血が見られることが多いことから、眼科医もこの問題に関わる機会がありました。

1970年代以降、乳児を激しく揺さぶることで脳や眼に損傷が生じるという考え方が提唱され、「揺さぶられっ子症候群(Shaken Baby Syndrome)」という概念が広く知られるようになりました。そして

①硬膜下出血(頭蓋内出血)

②脳障害

③網膜出血

という「三徴候」がそろう場合、虐待の可能性が高いと考えられるようになりました。

しかしその後、医学研究が進むにつれて、この問題はそれほど単純ではないことも明らかになってきました。

たとえば乳児では、低い場所からの転落など比較的軽い外傷でも急性硬膜下出血を起こすことがあると報告されています。日本では脳神経外科医の中村紀夫先生が、軽微な外傷に伴う乳児急性硬膜下出血を「中村Ⅰ型」として整理しました。

さらに、都立墨東病院などで診療していた脳神経外科医の藤原先生らは、このタイプの出血が虐待と誤認される可能性について問題提起を行いました。つまり、医学的には虐待以外の原因でも同様の所見が生じることがあるのではないか、という疑問です。

一方で、重度の網膜出血がある場合には強い加速減速外傷が疑われるとする研究もあり、眼底所見が重要な手がかりになるという考え方も存在します。こうした議論の中で、日本眼科学会でも乳児虐待が疑われる症例の眼底所見について一定の指針が示されてきました。

しかし臨床現場では事情はさらに複雑です。乳児の頭蓋内出血と網膜出血の組み合わせは、外傷以外にも

・血液凝固異常

・感染症

・血管の先天的異常

・代謝性疾患

などさまざまな原因で起こり得ることが知られています。したがって、単一の所見だけで原因を断定することは容易ではありません。

こうした医学的議論を背景に、日本では乳児虐待が争点となった刑事裁判で無罪判決が出るケースも近年みられるようになりました。日本の刑事裁判では、起訴された事件の有罪率が非常に高いといわれています。その中で、この分野の裁判は医学的判断が大きく関係するため、特に難しい領域といえます。

私自身も、今回の「国司事件」で弁護側参考人として関与する機会を得ました。弁護人である秋田正志弁護士から資料提供を受け、関連文献を読み進める中で、乳児の頭部外傷と眼底所見をめぐる医学的議論の複雑さを改めて感じました。

乳児虐待は決して軽く扱ってよい問題ではありません。一方で、医学的に多くの可能性を慎重に検討することも重要です。医療と司法の双方において、科学的根拠に基づいた冷静な判断が求められます。

本日、大阪高等裁判所で国司事件の判決が予定されています。この判決がどのような結論になるのか、多くの関係者が注目しています。医学と司法の接点にある難しい問題として、今後も社会全体で議論が続いていくことでしょう。

医師としての私の基本的な立場は、虐待の可能性を軽視することでも、逆に医学的な不確実性を無視して断定することでもありません。乳児の生命と安全を守ることが最も重要であることは言うまでもありませんが、その一方で、医学的事実に基づいた慎重な判断も同じように大切だと考えています。今回の裁判を通じて、この難しい問題について医学と司法の双方がより冷静に議論を深めていくことを願っています。


清澤コメント

乳児虐待を疑う所見として網膜出血が重要な意味を持つことは確かですが、それだけで原因を断定することは医学的にも慎重であるべきだと感じています。今回の国司事件の判決が、医学と司法の関係をより丁寧に考える契機になることを期待しています。

追記:日本のSBS裁判の主な年表(代表例)

① 2001年頃 山内事件(大阪)

日本で最も有名なSBS冤罪事件の一つとされます。

乳児死亡について父親が揺さぶり虐待をしたとして起訴され、一審は有罪。しかし控訴審の大阪高裁で逆転無罪となりました。三徴候のみでSBSを断定できないという司法判断が注目されました。


② 2003年頃 大阪乳児揺さぶり事件

乳児の脳出血をめぐり父親が傷害致死で起訴された事件。

三徴候を根拠とする検察側の主張に対し、転落事故の可能性が争われました。SBSの医学的根拠をめぐる議論が報道されました。


③ 2007年頃 名古屋乳児死亡事件

乳児の硬膜下血腫と網膜出血が見つかり、保護者が起訴された事件。

裁判では

  • 低位転落

  • 出生外傷

など別原因の可能性が議論されました。


④ 2008年頃 山内事件控訴審判決

大阪高裁がSBS診断の医学的確実性に疑問を示し、無罪判決。

日本のSBS裁判史の転換点とされる判決です。


⑤ 2010年前後 大阪保育士SBS事件

保育施設で乳児を揺さぶったとして保育士が起訴された事件。

医学鑑定の信頼性が争点となりました。


⑥ 2012年頃 東京乳児死亡事件

乳児の頭部外傷をめぐり保護者が起訴。

三徴候の解釈や外傷機序が争点となりました。


⑦ 2014年頃 国司事件

乳児の

  • 硬膜下血腫

  • 網膜出血

をSBSと断定できるかが争われた事件。

医学鑑定の評価や事故可能性が議論され、SBS診断の証明力が大きなテーマとなりました。


⑧ 2016年頃 大阪乳児死亡再審請求事件

SBSを根拠とした有罪判決に対し、医学的再評価を求める動きが出ました。

SBSをめぐる冤罪議論が再び報道されました。


⑨ 2018年頃 広島乳児死亡事件

乳児の頭部外傷について虐待か事故かが争われた事件。

乳児硬膜下血腫の自然発症可能性が議論されました。


⑩ 2020年代 SBS医学論争の継続

近年の裁判では

  • SBS三徴候の特異性

  • 網膜出血の鑑別

  • 低位転落事故

などについて、医学研究を踏まえた慎重な判断が求められるようになっています。


SBS裁判で共通する医学争点

多くの裁判で焦点になるのは次の**三徴候(triad)**です。

  1. 硬膜下血腫

  2. 網膜出血

  3. 脳浮腫

以前は

三徴候=揺さぶり虐待

とみなされることが多かったのですが、近年は

  • 低位転落

  • 新生児期の慢性硬膜下血腫

  • 血液凝固異常

  • 代謝疾患

  • 静脈血栓

などでも類似所見が起こり得ることが議論されています。


眼科医が関与する医学証拠

SBS裁判では特に

網膜出血の所見

が重要です。

鑑定では

  • 多層性出血

  • 周辺部までの広がり

  • retinoschisis cavity

  • vitreous hemorrhage

などの特徴が検討されます。

そのため

小児眼科医・神経眼科医の鑑定証言

が裁判の結論に影響することがあります。

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