北方謙三の水滸伝では隻眼の勇者が何人も登場します、その3人目が穆弘です。
『水滸伝』に登場する穆弘(ぼく・こう/ムー・ホン)は、通称「没羽箭(まつうせん)穆弘」と呼ばれる人物で、弓矢の名手として知られていますが、「片眼を失った」という設定は、原典(施耐庵作『水滸伝』)には明確には記されていません。
- 穆弘の描写について
穆弘は江州出身の武人で、弟の穆春(小遮攔)とともに兄弟で登場します。地元の豪族としてふるまっており、最初は宋江や李俊たちと対立しますが、のちに彼らと和解し、梁山泊に加わります。穆弘は主に水軍に所属し、水上戦などで活躍します。
- 「片眼を失った」という伝承について
穆弘が「片目」や「隻眼」であるという記述は、以下のような派生作品や伝承、講談、戯曲に由来する可能性があります:
- 中国の民間伝承や京劇などでは、視覚的なインパクトを強めるため、登場人物の容貌を誇張することがあります。
- 例えば、「片目の勇士」という設定が、穆弘の猛々しさや戦場での傷跡を象徴するものとして後付けされた可能性があります。
- あるいは、穆弘と似た名で別の隻眼の人物と混同された可能性も考えられます(たとえば『三国志演義』の夏侯惇など)。
- 結論
正史としての『水滸伝』には穆弘が片眼を失ったという明確な描写は存在しません。
そのため、「穆弘が片眼を失った経緯」は、原典ではなく、後世の脚色・二次創作による設定と思われます。
◎北方水滸伝での設定を教えてください。
北方謙三による『水滸伝』シリーズにおける穆弘(ぼくこう)の設定は、原典とは大きく異なり、彼の人物像や行動に深みを与えています。
🏹 北方謙三版『水滸伝』における穆弘の設定
- 生年と家族背景:穆弘は1076年に穆家村の保正(村の長)の次男として生まれました。w.atwiki.jp
- 兄の死と復讐心:13歳のとき、喧嘩に巻き込まれた自分を庇った兄が袋叩きに遭い、死亡しました。w.atwiki.jp
- 片眼を失った経緯:19歳のとき、博奕(ばくち)で片眼を賭けて敗北し、自らの眼を抉り取るという苛烈な行動をとりました。 w.atwiki.jp
- 志と行動:宋江や武松と出会い、「替天行道」の志に共鳴し、李俊の反乱を支援するなど、義を重んじる人物として描かれています。w.atwiki.jp
このように、北方謙三版では穆弘の片眼喪失が彼の過去の悲劇や性格形成に深く関わっており、原典にはない独自の人物像が描かれています。
◎ ウィキペヂアでの穆弘
穆弘

穆 弘(ぼく こう)は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物。
梁山泊第二十四位の好漢。天究星の生まれ変わり。弟に穆春がいる。恰幅の良い体格で、目は細く、眉は薄い威圧感のある容姿で、掲陽鎮一帯の顔役として幅を利かせている。一度怒り出すと止め様がない暴れ者で、喧嘩をすれば相手が死ぬまで容赦しない。このため近隣一帯で没遮攔(ぼっしゃらん)、遮るものなしと渾名され恐れられていた。李俊、張横とは縄張りを接する兄弟分である。
生涯
穆弘は江州掲陽鎮の保正(庄屋)穆太公の息子で、土地のヤクザ者をまとめあげて、掲陽鎮一帯を支配下に置き、みかじめ料を取り立てたり賭場を設けるなどして羽振りを利かせていた。ある晩、弟の面子を潰した流罪人を懲らしめようとするが、それは天下に名高い義士・宋江だと李俊から知らされ、弟ともに、非礼を詫びて歓待した。その後、流刑地の江州で宋江が牢役人の戴宗とともに処刑されかけていると聞いた穆弘らは、二人を救出するため、李俊、張横らと手下を率いて長江を下った。刑場へ辿り着くと、二人はすでに梁山泊の晁蓋たちに救出されていたので、李俊たちは役人に追われる彼らを船に乗せると穆弘の屋敷へ戻った。穆弘らはそのまま梁山泊に合流することになり、父をはじめとする家族を連れ、金目のもの車に積むと、屋敷に火をかけ梁山泊へ登った。梁山泊入山後は祝家荘の戦いに出陣し、祝家の次男・祝虎と互角に打ち合った。その後、劉唐とともに梁山泊南の第三関門の守備を担当、その後の主だった戦いにも殆ど参加した。
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