自由が丘の街角で──喫茶店アンセーニュ ダングル
自由が丘駅北口を出て、大井町線の線路沿いを東へ少し歩いたところに、赤い庇とレンガの外観が目を引くカフェがあります。「アンセーニュ ダングル(Enseigne D’angle)」という店名はフランス語で「角の看板」という意味だそうで、まさに街角に静かに佇む雰囲気にふさわしい名前です。
この店は1985年に自由が丘で開かれ、すでに40年近くの歴史を重ねています。系列としては1975年創業の原宿店に始まり、かつては広尾にも店舗を構えていたそうですが、現在は原宿と自由が丘の2店舗のみ。時代が変わっても、この場所で静かにコーヒーを淹れ続けてきたこと自体が、店の魅力となっているのだと感じます。
扉を開けて案内されたのは、奥へと伸びる長いカウンター席でした。オーナーの話によれば、このカウンターはアフリカ産の胡桃の木の一枚板を使っているそうです。原産地では水に沈んでいた倒木を掘り出して加工したものとのことで、確かに表面を撫でると深い質感と温もりが伝わってきます。
棚に並ぶ器にもこだわりがあります。コーヒーカップはロイヤルコペンハーゲンなどの上質なものを揃え、奥に飾られたポットはオーストリア王宮の窯で焼かれた磁器。非常に硬質で、軽く触れると澄んだ音を響かせるといいます。また、バカラより更に高級なのクリスタルグラスも置かれており、縁を水で濡らして指でなぞると高音を奏でることができるそうです。オーナーがそんな説明を女性客に語っていた姿が印象的でした。
今日はチーズケーキとアイスコーヒーを注文しました。ここでは食事らしい食事は用意されておらず、メニューはコーヒーを中心に、軽食としてクロックムッシュとチーズケーキのみ。けれども、その潔さがむしろ喫茶店としての性格を際立たせているように思います。しっとりとしたチーズケーキは甘さが上品で、深煎りのアイスコーヒーのほろ苦さと心地よく調和していました。
壁は年月の中で一度手が加えられたものの、大きな改装は行われていないとのこと。店内には落ち着いた照明とネルドリップの香りが漂い、流行にとらわれない独自の空気を保っています。自由が丘という新しいカフェやレストランが次々と現れる街にあって、この変わらぬ空気は大きな魅力ではないでしょうか。
私はカウンターに身を預けながら、北方謙三の『水滸伝』最終章を読み進めました。梁山泊の狩猟である宋江が若い騎兵隊長の王令に別れを告げ、英雄たちの物語が幕を閉じる場面。静かな店の雰囲気と、オーナーが語った木や器の物語が不思議に重なり合い、深い余韻を味わうことができました。
価格帯は千円前後と気軽に立ち寄れる範囲でありながら、用いられている素材や器には確かなこだわりがある。自由が丘駅から徒歩わずか数分の距離で、街の喧騒を忘れて本に没頭できるこの空間は、単なる喫茶店というよりも、長い時間を積み重ねてきた「街角の小さな文化遺産」のように思えます。
自由が丘に新しい店は数多くありますが、「アンセーニュ ダングル」には変わらない良さがある。そんな穏やかな確信を胸に、私はアイパッドを閉じて席を立ちました。
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