気が付けばもう12月14日を過ぎていました。
「赤穂事件」は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野長矩が切腹に処せられた事件です。その後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指します。事件の名称は「赤穂事件」で統一されています1。
赤穂事件を扱った創作については、物は、人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、忠臣蔵と呼ぶことが多いです。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼びます。吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼びます。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いですが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものです1。
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