清澤源弘(清澤眼科医院院長 元東京医科歯科大学眼科臨床教授)
はじめに
乳児における網膜出血は、硬膜下血腫及び脳腫脹(脳浮腫)と共に乳児揺さぶられ症候群の3徴候の一つとされてきた。
網膜出血の原因としては、急性硬膜下血腫ないし脳浮腫に伴う脳圧亢進があって、この結果として網膜静脈圧の上昇やうっ血乳頭の機序を介して網膜出血が起きていると考えられる。しかし、成人のくも膜下出血でしばしばみられるテルソン症候群のような強い硝子体出血は殆ど報告がみられない。最近では、別の原因として、頭部を激しく揺さぶることにより、移動する硝子体による牽引力が網膜および網膜血管にかかることによる局所的外力で出血が起きることを考える人もいる。
眼科臨床としては、元気がなかったり、痙攣発作を示して救急外来を訪れ、網膜出血が見られた乳児において、「虐待による乳児揺さぶられ症候群によるものか、通常の軽微な家庭内における転倒事故などによる急性硬膜下血腫によるものなのか」を法的に問われることがしばしばあった。
本邦の小児脳神経外科医の青木信彦、藤原一枝、西本博の各氏は、かつて東京大学および慈恵会医科大学脳神経外科に在籍された中村紀夫博士の提唱した「中村Ⅰ型」という転倒や低い位置からの転落に伴う外傷に伴う急性硬膜下血腫の存在に鑑みて、「硬膜下血腫に伴う網膜出血のすべてが、虐待による頭部外傷によるとは言えない」という主張を展開している。
その成果もあって、最近日本では急性硬膜下血腫や網膜出血の存在だけで虐待が疑われた裁判例において、虐待が否認された判決が連続して出されている状況である。
家庭内での事故による急性硬膜下血種における眼底出血所見
さて、小児脳神経外科医の西本博と藤原一枝は、2021年6月4日の第49回日本小児神経外科学会において、「家庭内での事故による急性硬膜下血種における眼底出血所見―abusive head trauma (AHT)との比較検討からー」という発表をしている。
彼らが「中村Ⅰ型」と確定診断した2012年以降の乳児20例における眼底出血所見を、急性硬膜下血腫が存在した虐待による乳児頭部外傷(AHT)11例との比較で検討した。眼底出血の程度評価にはVinchonの分類(Vinchon M, 2010)を用いた。
その結果では、
(1)家庭内事故による急性硬膜下出血20例中における眼底出血は、両側性出血17例(85%)、片側性出血2例、出血なし1例であり、虐待による頭部外傷11例では両側性出血10例(91%)、片側性出血1例であった。
(2)眼底出血の程度(Vinchon分類)を両群で比較すると、家庭内事故による急性硬膜下血腫ではGrade1(軽度)6例(25%)、Grade 2 (中等度)8例(33%)、Grade 3 (高度)10例(42%)であった。(図1,2)
(3)家庭内事故による急性硬膜下血腫において眼底出血の程度と急性硬膜下血腫の重症度との関連を見ると、両者の間には相関が認められなかった。
そして結論として、虐待による頭部外傷では、より高度の眼底出血が全例に認められたが、家庭内事故による急性硬膜下血腫でも比較的高度の眼底出血が認められる例があり、「眼底出血の程度のみをもって両者を鑑別するのは慎重であるべきである」としていた。
図1 (略)10か月男性、事故による急性硬膜下血腫のCT所見
右頭頂後頭部に急性硬膜下血腫が存在し、右大脳半球における脳浮腫と正中構造の左への
偏位が認められ、緊急血腫除去+減圧開頭術が施行された。
右眼底 左眼底
図2 (略) 同症例における眼底検査所見。
両側に高度の眼底出血(Vinchon分類 grade 3)が認められる。
考察
文献にて乳児揺さぶられ症候群にみられる眼底出血の特徴を症例報告も含めて渉猟してみると、Wang Lら(2019)は、両側性で広範な網膜前および網膜内出血の両方の性格を持つ多数の汎網膜出血が見られることが多いという。網膜出血の正確な持続期間の測定は困難だが、網膜内出血が通常数週間以内に消退するのに対して、網膜前出血は数ヶ月まで続く場合があるとしていた。その原因には言及されていないが、白血病や菌血症で見られるとされる出血内部に白い斑点のあるいわゆるロート斑が見られる事があるという。
また、黄斑部に出血に伴う黄斑前膜や網膜ひだ形成を示すものがあり、さらに網膜分離症を示すものもある。これらの所見は家庭内での事故による急性硬膜下血腫には少ないなどの記載もみられた。しかし、先の西本らの報告例にもロート斑や出血に伴う黄斑前膜を呈したものが少なくとも各1例あり、これらの変化が必ずしも乳児揺さぶられ症候群に特有な変化とは言えないようである。
更に、Maguire Sら(2013)は,虐待による頭部外傷(AHT)と事故による頭部外傷を区別する網膜の徴候を、1950年から2009年までの文献で系統的にレビューしている。症例選択基準は、病因の厳密な確認、11歳未満の子供、および眼科医が実施した検査の詳細であった。
網膜出血は虐待による頭部外傷では78%に認められたのに対して、事故による頭部外傷では5%のみで発見されていた。頭部外傷と網膜出血のある子供では、虐待の確率は91%であった。記録されている場合、網膜出血は虐待による頭部外傷の83%で両側性であったのに対し、事故による頭部外傷では8.3%のみで両側性であったという。網膜出血は乳児虐待では多数にみられであり、事故による頭部外傷例では後極に出血が限局する事が多く少数であり、出血が周辺にまで広がって伸びているのはわずか10%であった。網膜の襞などの追加病変の真の有病率は決定できなかったという。
結論としてこの系統的レビューでは、虐待による頭部外傷では、両眼に多発性の多数の網膜出血が多いが、独特の網膜徴候はない。網膜出血は偶発的な事故による頭部外傷ではまれであり、存在する場合は主に片側性で、数も少なく、後極に限局して見られたとしている。
最近のKsiaa, Iら(2020)の文献では3次元画像解析装置(OCT)を用いた網膜の観察報告が出ている。この方法では通常の眼底カメラよりも小児の眼底を写すのが難しいが、最近眼科の医療現場に広がりつつある機材であり、乳児揺さぶられ症候群における特有な網膜硝子体境界面における網膜牽引などの変化が可視化できたとしていた。
ここで、小児頭部外傷における網膜出血についてまとめてみる。
眼底写真は共通の議論を展開する基盤となるので、ぜひ撮影記録しておいていただきたいものである。かつては手持ちでフイルムを入れて撮影するカメラが存在したが、現在ではRetCam 3 (Clarity社)という大型の機械が多くの小児を扱う病院ではそれに置き換わっている。しかし、それはどの病院でも使える環境ではない。
更に、最近では三次元画像解析装置も広まっているが、乳児をカメラの前に座らせるのは相当な困難があり、全例にそれを要求するのは難しいであろう。可能であれば、まず眼科医が初診時に倒像鏡で出血を確認し、出血等があれば数週ごとに出血の消退までを確認いただければよいだろう。
乳幼児頭部外傷で、眼底出血が起こりやすい理由に現在明確な答えは与えられてはいない。発生機序については、序文で述べたように脳圧亢進を考える説と、直接的な網膜と硝子体とのずれを考える両説がある。検査機器としてのOCTの登場で、後者(網膜や頭蓋骨の脆弱性)の重要性にも着目されているようである。
小児の事故による頭部外傷及び虐待による頭部外傷における網膜出血の「多層性」と「両側性」は確かに乳児揺さぶられ症候群の一般的な特徴ではある。しかし、総説論文による多数例の検討では、その事象だけで乳児虐待であるとは判断がむつかしいとしている。
したがって、眼科医としては、「虐待による頭部外傷の眼底出血と家庭内における軽微な事故による頭部外傷における眼底出血とを、眼底所見だけに基づいて判断することが出来ると過信することにはリスクが伴う」と言わざるを得ない。
両者の鑑別には、精密な経過を見た眼底写真の記録が必要であるが、保護者らの行動を含む状況の把握も必要であろう。(論文では無いので、引用文献は省略した。)
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