清澤のコメント:「児童虐待のベイズ分析における潜在的な落とし穴」というJAMA誌掲載の論説を読みました。私は、乳児虐待事件に被告側弁護士から相談を受けていて、その証人として意見書も提出しております。それで、このような件には眼科臨床医として関心を持っておりました。此の編集言を紹介します。
「乳児虐待の診断にベイズ統計をどう活かすか―その限界と可能性」
2025年4月にJAMA誌に掲載された論説「児童虐待のベイズ分析における潜在的な落とし穴」は、医学と法が交差する場面における診断推論の難しさを鋭く浮き彫りにしています。筆者であるリンドバーグ、グリーリー、クリスチャンの3名は、医学的知見を法廷に持ち込む際の注意点と、データに基づく診断の慎重な運用を呼びかけています。(本ブログで既に解説済みです。)
■ 背景:ベイズ推論と児童虐待診断
子どもの身体的虐待の診断は極めて困難であり、診断の成否が家族関係や子どもの生命に深く関わります。しかし、明確な検査指標や画像所見がないことも多く、保護者が情報提供に非協力的な場合もあり、臨床判断には高度な経験と統計的知見が求められます。
このような中で注目されているのが「ベイズ推論」に基づく診断です。ベイズ統計では、診断前の確率(事前確率)に検査結果の尤度比を加味して、診断後の確率を推定します。例えば、神経画像で硬膜下血腫を認めた場合、それだけで虐待の可能性が「18%→41%」に、さらに口腔損傷を伴えば「60%」に上昇するとされています(Shahらの報告による)。
■ 問題点:確率は真実を語らない
しかし著者たちは、このような数値の「魔力」に警鐘を鳴らします。最大の問題は、「この子どもは虐待された可能性が60%」という表現の危うさです。これはあくまで集団データに基づく統計的推定であり、個々の事例にそのまま当てはめるべきではありません。たとえば、同じような画像所見でも、転倒の直後に受診した例と、数日間昏睡してから受診した例では、虐待の可能性は全く異なるはずです。
さらに、網膜出血やパターン化打撲、骨折などの「典型所見」も、重症度や併発所見の文脈次第で評価が変わります。しかも、複数所見の尤度比を単純に掛け合わせることには、所見同士の関連性(共線性)を無視する危険があるのです。
■ 法廷における危険:数字の誤用とレトリック
ベイズ推論が法廷で誤用される例として、「硬膜下血腫+網膜出血+昏睡=虐待」という単純な三段論法が典型です。これは実際には臨床現場で使われているわけではなく、「医師が安易に決めつけた」と誤認させる藁人形論法に過ぎません。現実の臨床では、保護者の説明、子どもの病歴、他の傷害の有無など多くの要因を慎重に評価しています。
また、「虐待と一致する」「典型的である」といった曖昧な医学用語も、法廷では「診断確定」と誤解されやすいと指摘されます。実際、法廷で使われる「合理的医学的確信」や「合理的な疑いを超えて」といった法的基準も、医学的には明確な定義がありません。
■ 臨床医ができること:丁寧な説明と合理的な判断
では、我々医療者はこの難題にどう向き合えばよいのでしょうか。著者たちは以下のような実践的提言をしています。
- たとえ「虐待の可能性60%」であっても、即断ではなく「追加評価に値する」と判断することが合理的。
- 所見の特異度に応じてリスクのレベルを階層化する(例:単純頭蓋骨骨折は低リスク、肋骨骨折は高リスク)。
- 評価に使用した所見の根拠、解釈、限界を明示する。
- 数字ではなく文脈を重視した説明で、関係者全体が判断の根拠を理解できるようにする。
■ 院長コメント
私は、眼科医として虐待の画像診断に関与しています。網膜出血や眼球周囲の損傷は乳児虐待でしばしば問題となる所見です。こうした所見を「虐待の証拠」と即断するのではなく、その背景や他の要素とあわせて総合的に判断する冷静さが求められます。統計はあくまで補助的なツールであり、子ども一人ひとりの背景に寄り添った解釈が必要です。
【参考論文】
- Lindberg DM, Greeley C, Christian CW. Potential Pitfalls of Bayesian Analysis in Child Abuse: Tending to the Trees in the Forest of Data. JAMA. 2025;334(2):124-125. doi:10.1001/jama.2025.4722
- Shah N, et al. The Rational Clinical Examination: Diagnostic Accuracy of Findings for Physical Abuse in Children. JAMA. 2025;同号掲載.
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清澤 源弘「乳児の眼底出血,所見から虐待の判断は可能?」『日本医事新報』 第5148号(2022年12月24日号)51〜52ページ
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