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[No.4452] 北方謙三の長編小説岳飛伝に描かれる「南方世界」とは何だったのか

岳飛伝に描かれる「南方世界」とは何だったのか

今でも美しく白い石灰岩の結晶である大理石というものがあります。なぜこの石を大理石と呼ぶかといえば、中国雲南省の旧名である大理にたどり着きます。梁山泊との戦いの中、国としての南宋に裏切られた宋の軍閥の将、岳飛が南宋の追っ手を雲南省に逃れ、更に南に逃げてメコン川の流域に至ります。北方謙三の長編小説『岳飛伝』を読んでいると、中国史を扱った物語でありながら、しばしば読者の意識が「中原」から外へ引き離される瞬間があります。その代表が、物語の後半で語られる「南方世界」の存在です。そこには、メコン川上流の巨大な滝をはじめとする、人の力ではどうにもならない自然の壁が描かれます。

この滝は、現在のラオス南部にある コーン・パペン滝(Khône Phapheng Falls)を指していると考えるのが最も自然です。

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なぜコーン・パペン滝なのか

  • メコン川最大の滝

    全体の落差は約20mと数値上は巨大ではありませんが、乾季でも圧倒的な水量を誇り、幅数kmにわたって白濁した奔流が続きます。

  • 歴史的な交通の難所

    古来より船の通行を阻む“天然の関門”として知られ、南方世界を隔てる象徴的存在でした。

  • 地理的位置の整合性

    中国雲南から南下するメコン川が、東南アジア低地に出る直前に立ちはだかる滝であり、「中原の視点から見た南方の果て」という『岳飛伝』の描写と符合します。

この「南方世界」は、単なる地理的な場所ではありません。北方謙三はここを、宋という国家、さらには中国文明そのものが及ばない外部世界として配置しています。

中原の論理が通じない場所

『岳飛伝』の中心には、秩序、制度、軍、忠義といった「中原の論理」があります。岳飛という人物もまた、その論理の中で生き、戦い、苦悩します。しかし南方世界に足を踏み入れた瞬間、それらは意味を失います。国境は曖昧で、支配者も定まらず、人々は自然と共に生きています。

とくに印象的なのが、川と滝の描写です。舟で進もうとしても進めない、迂回もできない。そこには敵も城もなく、ただ「越えられない」という事実だけがあります。これは、武力や知略で道を切り開いてきた中国史の英雄たちにとって、極めて異質な体験です。

南方は「逃げ場」ではない

一見すると、南方世界は中原の争いから離れた「自由の地」に見えます。しかし北方は、そこを決して理想郷としては描きません。病や飢え、自然の脅威は中原以上に厳しく、人は簡単に死にます。国家に守られることもありません。

それでもなお、南方世界には、中原には失われた何かがあります。それは「生き延びること」そのものに直結した価値観です。名誉や忠義ではなく、今日を生き、明日につなぐこと。その感覚が、物語の中で静かに浮かび上がります。

岳飛の物語を外側から照らす装置

南方世界は、岳飛の生き方を相対化するための装置でもあります。岳飛は、最後まで中原の論理の中で生き抜いた人物です。南へ逃げる選択肢は、物語の中に確かに存在します。しかし彼はそこを選ばない。だからこそ、彼の忠義と悲劇は際立ちます。

読者は、南方という「別の世界」を知ることで、岳飛の選択が唯一の正解ではなかったことを理解します。それでも彼がその道を選んだ理由を、より深く考えさせられるのです。

現代の私たちへの示唆

現代社会もまた、効率や制度、評価の論理で動いています。その中で息苦しさを感じる人は少なくありません。『岳飛伝』の南方世界は、「そこへ行けば救われる」という場所ではありませんが、「別の生き方があり得た」という想像力を読者に与えてくれます。

眼科診療の現場でも、病気や数値、制度の話だけでは説明しきれない患者さんの人生があります。北方謙三が描いた南方世界は、そうした“外側の視点”の大切さを、静かに教えてくれるように思います。

『岳飛伝』は英雄の物語であると同時に、文明の限界を描いた作品でもあります。その中で南方世界は、今もなお私たちに問いを投げかけ続けているのです。

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