白内障

[No.3813] 終戦へのカレンダー:1945年8月の日本と世界


終戦へのカレンダー:1945年8月の日本と世界

8月になると、毎年思い起こされるのが「終戦」です。私たち日本にとって、1945年8月はまさに運命を決する1か月でした。日々の生活の中でこの1か月の歩みを振り返ることは、平和への祈りを新たにする大切な機会でもあります。

私自身が生まれたのはこの終戦の8年後、すでに日本は復興と平和の道を歩み始めていました。しかし、父母の世代にとっては、この戦争の5年間は窮乏と塗炭の苦しみの連続だったことでしょう。

以下に、終戦へと向かう1945年8月の主な出来事をカレンダー形式でまとめました。


【1945年8月の終戦に関する主な出来事】

▶ 1945年2月4日〜11日:ヤルタ会談(事前経緯)

米英ソ三国首脳(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)がクリミア半島のヤルタで会談し、ソ連の対日参戦や戦後の国際秩序について合意。これが8月のソ連参戦につながります。

▶ 1945年7月26日:ポツダム宣言発表

アメリカ・イギリス・中国が日本に無条件降伏を求める声明を発表(ソ連は署名せず)。日本政府は当初これを黙殺しますが、のちに大きな転機となります。


8月6日(月)

広島に原子爆弾投下

アメリカ軍が世界初の原子爆弾を広島に投下。市街地は壊滅し、約14万人の命が失われたとされます。核兵器の脅威と戦争の惨禍が、一瞬にして現実のものとなった日です。

8月8日(水)深夜

ソ連、対日参戦

日ソ中立条約を破棄し、ソ連が満州に侵攻。日本は南方に加えて北方からも挟撃され、戦争継続は絶望的な情勢に。

8月9日(木)

長崎に原子爆弾投下

広島に続き、2発目の原爆が長崎に投下されました。この日、政府内ではポツダム宣言の受諾をめぐる議論が本格化します。

8月10日(金)

日本政府、スイス経由でポツダム宣言受諾を通告(国体護持の条件付き)

「天皇制の維持」を条件に、停戦意思を連合国に伝達。東京を含む大都市では空襲が続き、国民の疲弊も限界に達していました。

8月12日(日)〜13日(月)

御前会議でポツダム宣言の受諾を正式決定

天皇自らが「終戦の聖断」を下し、ポツダム宣言受諾を最終決定。戦争継続を主張する軍部との激しい議論を収める形となりました。

8月14日(火)深夜

宮城事件(終戦反対派によるクーデター未遂)

一部の青年将校が玉音放送を阻止しようとするも失敗。国内の対立と混乱が最後まで続いていたことを象徴する事件です。

8月15日(水)正午

玉音放送(終戦の詔勅)

昭和天皇の声がラジオを通じて全国に流れ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」終戦が国民に伝えられました。多くの人々にとって、時代が変わった瞬間でした。

8月16日(木)以降

各地の軍隊に停戦命令が伝達

戦場では混乱が続きましたが、各前線へと順次停戦命令が伝えられ、実際の戦闘行為が終息に向かっていきます。

9月2日(日)

日本、戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印(東京湾)

この日、連合国との正式な降伏文書が調印され、国際的には「第二次世界大戦の終結日」とされています。


所感:8月という月に想うこと

この1か月の出来事は、単なる年表ではなく、一つひとつに命の喪失と苦渋の決断が重ねられています。私は毎年このカレンダーを目にするたびに、自然と手を合わせたくなります。

戦争を体験した世代が少なくなる中、私たちは「事実」と「感情」の両方を後世に語り継いでいく責任があります。眼科医として日々、患者さんの命や尊厳と向き合う中で、戦争が奪った命の重みを改めて感じます。


清澤のコメント:

戦争と医療、一見別の領域に見えて実は深く結びついています。戦火による視力喪失、放射線障害、心の傷など、医療が担うべき課題は数多く存在します。2025年の今年も、8月を迎えるにあたり、この歴史に静かに思いを寄せ、平和の大切さを改めて胸に刻みたいと思います。


【参考資料】

・内閣官房「終戦までの経緯」

・国立公文書館「昭和天皇の終戦詔勅」

・NHK戦争アーカイブ

追記;日本の終戦の詔勅の本文は実際には誰が記載したのか?

日本の「終戦の詔書(詔勅)」、つまり1945年8月14日に発せられた「大東亜戦争終結ノ詔書」(玉音放送の原文)は、御前会議の決定を受けて、昭和天皇の名において発せられた詔書ですが、その実際の起草を担当したのは、当時の内閣書記官長・迫水久常(さこみず ひさつね)です。

ただし、正式な文案は内閣の文案担当者によって作成され、首相の鈴木貫太郎東郷茂徳外相らが内容を検討し、最終的には昭和天皇がご自身で加筆修正を加えたとされる重要文書です。

起草・編集の流れ(概要):

  1. 基本文案作成:迫水久常(内閣書記官長)が中心となり、文語体の草案を起草。

  2. 閣議で検討・修正:首相の鈴木貫太郎、外相の東郷茂徳らが内容に意見を加えた。

  3. 昭和天皇の関与

    • 天皇自身が語句の修正や表現の選択に関与し、特に国体護持への配慮や臣民への謝意の表現を強調。

    • 天皇の御意を入れた「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…」という有名な冒頭部分も、天皇自身の希望により追加されたとも言われる。

  4. 宮中での形式整備と押印:最終案は御前会議で了承され、天皇の「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」が付されて正式な詔書となった。


補足:玉音放送と詔書

  • 玉音放送で読み上げられた内容は、この「終戦の詔書」の全文。

  • 読み上げたのは昭和天皇ご自身(録音されたもの)。

  • 実際の詔書には、「戦争終結」という直接的な言葉ではなく、「事態を収拾する」「堪え難きを堪え…」などの文語調で婉曲な表現が使われており、これも天皇の意向を反映したものとされています。


結論:

「終戦の詔書」の本文は、内閣書記官長・迫水久常が主に起草し、内閣が協議のうえ修正し、昭和天皇自身が重要な部分に加筆修正を加えたものである。

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