終戦へのカレンダー:1945年8月の日本と世界
8月になると、毎年思い起こされるのが「終戦」です。私たち日本にとって、1945年8月はまさに運命を決する1か月でした。日々の生活の中でこの1か月の歩みを振り返ることは、平和への祈りを新たにする大切な機会でもあります。
私自身が生まれたのはこの終戦の8年後、すでに日本は復興と平和の道を歩み始めていました。しかし、父母の世代にとっては、この戦争の5年間は窮乏と塗炭の苦しみの連続だったことでしょう。
以下に、終戦へと向かう1945年8月の主な出来事をカレンダー形式でまとめました。
【1945年8月の終戦に関する主な出来事】
▶ 1945年2月4日〜11日:ヤルタ会談(事前経緯)
米英ソ三国首脳(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)がクリミア半島のヤルタで会談し、ソ連の対日参戦や戦後の国際秩序について合意。これが8月のソ連参戦につながります。
▶ 1945年7月26日:ポツダム宣言発表
アメリカ・イギリス・中国が日本に無条件降伏を求める声明を発表(ソ連は署名せず)。日本政府は当初これを黙殺しますが、のちに大きな転機となります。
8月6日(月)
▶ 広島に原子爆弾投下
アメリカ軍が世界初の原子爆弾を広島に投下。市街地は壊滅し、約14万人の命が失われたとされます。核兵器の脅威と戦争の惨禍が、一瞬にして現実のものとなった日です。
8月8日(水)深夜
▶ ソ連、対日参戦
日ソ中立条約を破棄し、ソ連が満州に侵攻。日本は南方に加えて北方からも挟撃され、戦争継続は絶望的な情勢に。
8月9日(木)
▶ 長崎に原子爆弾投下
広島に続き、2発目の原爆が長崎に投下されました。この日、政府内ではポツダム宣言の受諾をめぐる議論が本格化します。
8月10日(金)
▶ 日本政府、スイス経由でポツダム宣言受諾を通告(国体護持の条件付き)
「天皇制の維持」を条件に、停戦意思を連合国に伝達。東京を含む大都市では空襲が続き、国民の疲弊も限界に達していました。
8月12日(日)〜13日(月)
▶ 御前会議でポツダム宣言の受諾を正式決定
天皇自らが「終戦の聖断」を下し、ポツダム宣言受諾を最終決定。戦争継続を主張する軍部との激しい議論を収める形となりました。
8月14日(火)深夜
▶ 宮城事件(終戦反対派によるクーデター未遂)
一部の青年将校が玉音放送を阻止しようとするも失敗。国内の対立と混乱が最後まで続いていたことを象徴する事件です。
8月15日(水)正午
▶ 玉音放送(終戦の詔勅)
昭和天皇の声がラジオを通じて全国に流れ、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」終戦が国民に伝えられました。多くの人々にとって、時代が変わった瞬間でした。
8月16日(木)以降
▶ 各地の軍隊に停戦命令が伝達
戦場では混乱が続きましたが、各前線へと順次停戦命令が伝えられ、実際の戦闘行為が終息に向かっていきます。
9月2日(日)
▶ 日本、戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印(東京湾)
この日、連合国との正式な降伏文書が調印され、国際的には「第二次世界大戦の終結日」とされています。
所感:8月という月に想うこと
この1か月の出来事は、単なる年表ではなく、一つひとつに命の喪失と苦渋の決断が重ねられています。私は毎年このカレンダーを目にするたびに、自然と手を合わせたくなります。
戦争を体験した世代が少なくなる中、私たちは「事実」と「感情」の両方を後世に語り継いでいく責任があります。眼科医として日々、患者さんの命や尊厳と向き合う中で、戦争が奪った命の重みを改めて感じます。
清澤のコメント:
戦争と医療、一見別の領域に見えて実は深く結びついています。戦火による視力喪失、放射線障害、心の傷など、医療が担うべき課題は数多く存在します。2025年の今年も、8月を迎えるにあたり、この歴史に静かに思いを寄せ、平和の大切さを改めて胸に刻みたいと思います。
【参考資料】
・内閣官房「終戦までの経緯」
・国立公文書館「昭和天皇の終戦詔勅」
・NHK戦争アーカイブ
追記;日本の終戦の詔勅の本文は実際には誰が記載したのか?
コメント