阿佐ヶ谷の名画座映でこの「風とあらしよ」という映画を見てきました。いつもは地下のホールだけですが、今日は一階のシアターも使っていました。映画にもお客が戻って来ているのかもしれません。明治28年生まれの伊藤野枝は、親の意向で女学校在学中に入籍。(偶然ですが、この明治28年は私の祖母の生まれ年と同じ年。)卒業後、家を出て女学校教師の辻潤と夫婦になり、平塚らいてうの青鞜社にも加入。平塚が「原始、女性は実に太陽であつた」と謳ったのとは対照的に、野枝は「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と謳っている。社会主義的思想を深め、青鞜社を引き継ぐも、雑誌青鞜は廃刊、辻潤とも離別。無政府主義者(アナキスト)であった大杉栄と再婚し子供を設ける。世は大正デモクラシーの時代であったが、官憲の社会主義に対する圧迫は一層強まっていった。その時に起きた関東大震災の騒擾の中で、大杉栄、甥とともに憲兵隊内で殺害され、死体は古井戸に投じられた。この時には多くの朝鮮人も自警団によるリンチで殺害されています。その時代に生きていた人々にとっても、社会主義者の逮捕投獄はあり得ても、まさか無裁判で殺害されることまでは予測しなかったことでしょう。(歴史を見ると、甘粕の単独犯というよりもより上層部の指示があったという説もある。)
時代はその後、特高警察や憲兵隊が更に傍若無人にふるまい、戦時色を強めてゆきます。伊藤野枝らを殺害した責任者であった甘粕正彦大尉は、任を解かれますが、7年ほどの収監のみで満州に渡り、特務機関の仕事に従事しています。のちには満州映画協会の理事長などにも就任していますが、終戦時の8月20日に服毒自殺をしています。
ウィキペディアを見ると、”森繁久彌は甘粕について「満洲という新しい国に、我々若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金を儲けようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった」と語っている。武藤富男は、「甘粕は私利私欲を思わず、その上生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら…と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった」と好意的な評価を述べている。
また、李香蘭こと山口淑子が、「満映を辞めたい」と申し出た際には「気持ちは分かる」と言って契約書を破棄したが、彼女の証言によれば「ふっきれた感じの魅力のある人だった。無口で厳格で周囲から恐れられていたが、本当はよく気のつく優しい人だった。ユーモアを解しいたずらっ子の一面もあるが、その度が過ぎると思うことも度々だった。酒に酔うと寄せ鍋に吸殻の入った灰皿を入れたり、周囲がドキリとするような事をいきなりやった」とのこと。
権力を笠に着る人間には硬骨漢的な性格を見せ、内地から来た映画会社の上層部を接待した席で彼らが「お前のところの女優を抱かせろ」と強要した際に、「女優は酌婦ではありません!」と毅然とした対応をしたという記載もあった。
これら周囲の人間の好意的な証言がある一方で、ヒステリックで神経質、官僚的という性格が一般には知られていた。” という評価もあるということである。
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