清澤のコメント:目黒区への空襲は江東区などへの3月10日ではなく同年4月15日からあった。その日が近づいているので記録を紐解いてみた。自由が丘は駅周辺にも被災地域が有ったようだ。上の図は正に昔のコンクリート製防火用水。現在は空で木の蓋がかかっている。女神通の北の端西側で自由が丘通と東急東横線の交差する踏切脇の木造二階建てで、今は住む人のいない民家前に残っていた。この場所は下の地図では空襲で焼けた範囲に入っています。
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目黒区における戦災の状況(東京都)
空襲等の概況
戦争が終わりに近づくにつれ、東京の空は相次ぐ空襲によって赤く焼ける日が多くなっていった。しかし、当初、目黒区は比較的被害が少なく、東京の約4割を灰燼に帰せしめたといわれる昭和20(1945)年3月10日の大空襲にも、ことなきを得ていた。だが、やがて同年4月15日以降、さらに数次の空襲によって、ついに区内の一部に被害を受け、多くの家屋が焼かれ、死者までも生ずるに至った。
すなわち、4月15日夜の空襲は、同日22時3分に関東地区に空襲警報が発令され、翌日、16日の1時10分に解除されたのであるが、その間、B29約200機が東京に来襲、主として焼夷弾による波状攻撃を行なった。帝都防空本部情報によれば、このときの目黒区内における被害は、唐ヶ崎町・自由ヶ丘等に、死傷者76名、全焼家屋2,348戸、罹災者1万1,000人とされている。
さらに、昭和20(1945)年5月24日、B29約250機が、約2時間にわたって波状絨氈爆撃を行なったが、稠密な焼夷弾投下によって広範囲に火災が発生し、大災害を生じた。この時の空襲で上目黒三~五丁目他が焼失した。消防庁発表の被害状況では、目黒区の死傷者608名、全焼家屋9,200戸、罹災者約3万4,600人となっている。
ついで翌5月25日夜にもB29 200数十機による空襲を受け、残存していた東京市街の大部分が焼かれた、死傷者539名を出し、全焼戸数は5,087戸に及んだ。
このように悲惨な被害を被って、ようやく終戦を迎えるのであるが、戦争終結までの目黒区における被災状況は、死者291名、傷者1,553名、全焼家屋2万6,095戸、罹災者10万3,425名となっている(帝都防空本部情報より東京都で集計)。
そして終戦時、戦禍の中になお居住していた人びとは10万213人、3万2,064世帯であり、そしてそのうち3,829世帯・1万1,065名が、壕舎・仮小屋に住んでいた。(「目黒区史」(1961年12月23日、東京都目黒区発行)
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