コンタクトレンズ・眼鏡処方

[No.2367] 江戸時代中期の眼鏡制作工業:

澪の料理帳(高田郁)の追加バージョンの花だより(特別巻)159Pあたりに、主人公澪の親友が文政時代の大阪で眼鏡を扱う店を開いたという話が出てきます。日本の江戸時代中期((文化文政時代)における眼鏡制作の実際はどうだったのでしょうか?

江戸時代中期(文化文政時代)の日本において、眼鏡制作工業は興隆していました。輸入品と国産品について説明します。

  1. 輸入品

    • 当時の日本では、眼鏡は海外からの貴重な輸入品でした。特に、長崎を通じて輸入されていたとされています。
    • この時期、視力補正用の白いガラスはイタリア・ベニスのムラーノ島で製造されており、世界中がイタリアを頼りにしていました。
    • 1551年(天文20年)には、宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に眼鏡を持ち込みました。彼は周防国(現在の山口県)を布教の拠点にしようと考え、国主大内義隆に13種類の貴重なプレゼントを贈りました。その中に眼鏡も含まれていました。
  2. 国産品

    • 日本国内でも眼鏡の製造が行われていました。大阪、京都、江戸などでメガネ製造が行われていました。
    • 18世紀には、日本国内での製造場所が徐々に広がっていきました。
    • 現代のようなバラエティ豊かな眼鏡が、国内で手頃な価格で手に入るようになったのは、この時期からでした。

 江戸時代、眼鏡づくりで活躍したのが、細かな金属加工を行う飾師(かざりし)や装飾用の水晶などを磨く細工師などといった職人たちでした。こうした職人がたくさんいた京では、早くから眼鏡屋があったようです。この小説の中の清右衛門のモデルである滝沢馬琴は、その日記にライフワーク『南総里見八犬伝』を執筆中に左目の視力が低下し眼鏡を1両1分で買ったと記載したそうです。現代の金額にするとだいたい8万円くらいともされています。資料;(⇒元記事および、「眼鏡の社会史」白山噺也著(ダイヤモンド社)

 

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